藤井聡太でも伊藤匠でもない…小3の全国大会で優勝、藤井世代“もうひとりの天才”はなぜプロに進まなかった?「将棋を指す行為が“嫌い”になった」
藤井聡太と伊藤匠。2人が出場した小学3年の全国大会で優勝したのが川島滉生さんだ。本人に話を聞いた
6月20日、藤井聡太八冠の同学年棋士・伊藤匠が叡王を奪取し、“藤井世代”がタイトルを分け合う格好となった現在の将棋界。この2人のタイトル戦を特別な思いで見守ってきた同級生がいる。藤井、伊藤が出場した小学3年生時の全国大会で2人を抑え、優勝を果たした川島滉生さんだ。奨励会入りしなかった天才が幼少期からの思い出を振り返る。(全2回の第1回/続きは#2へ)※初公開日は2023年11月10日 肩書はすべて当時
準優勝・伊藤匠、第3位・藤井聡太
様々なスポーツで〈子供の頃からその才能を嘱望された〉というエピソードはしばしば聞く。例えばバルセロナの下部組織に所属した久保建英、史上最年少で日本代表に選出された卓球の張本智和は10代前半からその輝きを放ち、今に至っている。
そういった才能の輝きは、将棋の世界でも同等、いや他競技以上に鮮明なのかもしれない。
第36期竜王戦のカードが藤井聡太竜王・名人と伊藤匠七段の「同学年対決」に決まって、あらためて脚光を浴びた写真がある。それはさかのぼること11年前、ある小学生対象の全国将棋大会での一コマだ。森内俊之名人と高見泰地四段の前に、かわいらしい3人の少年の姿がある。
その左端は伊藤匠くん、右端は藤井聡太くんだった。
同大会で伊藤は準優勝、藤井は3位に入った。なお準決勝では伊藤に敗れた藤井が号泣した。両者のエピソードは将棋ファンなら誰もが知ることになったが、同大会決勝で優勝したのは伊藤ではなく、写真の中央にいるメガネ姿の「川島滉生くん」だ。
川島くんは小学生の頃から「たっくん」こと伊藤と、同じ将棋クラブで腕を磨き合った間柄だった。
「あの一局は僕の会心譜で、相当上手く指せたなって記憶しています。戦型は相矢倉だったんですけど、たしか向こうが普段やらないような変化を注文つけてきて、そこから僕が猛攻を仕掛けて、うまく玉頭を突破して攻めた感じの将棋でした。割と一方的になったんですよね」
藤井についての記憶は…
現在、21歳となった川島さんはこう鮮明に記憶していた。その一方で、十数年後に将棋界の八冠王者になる3位の藤井については……。
「記憶はほとんどないんですよね。あの大会で6局くらい指してるんですけど、そのうち将棋の内容を覚えているのは準決勝と決勝の2局だけで、あまり覚えてないんですよ。あとで記事を読んで、その時のことを知るみたいなケースが多いんです。当時の藤井少年が大泣きしたみたいな記事がありますけど、あれが、そうだったんだって」
なぜプロ棋士の道を選ばなかったのか?
八冠全制覇を成し遂げた藤井に、同い年として竜王戦挑戦者をつかんだ伊藤。今後の将棋界を引っ張っていくホープであるのは間違いない。その2人を抑えて幼少期に優勝した川島さんは今、早稲田大学でアマという立場で将棋と向き合っている。川島さんは高校1年生にして高校の全国大会で優勝を果たし、進学した早稲田大学でも将棋部に入部し、22年6月に開催された第78回学生名人戦を制し、学生名人の座に就いた。さらには出場権を得た朝日杯将棋オープン1次予選では、谷合廣紀四段、北島忠雄七段とプロ相手に連勝を飾ったのだ。
これだけの実績を見ると、こんな疑問が浮かぶ人は多いだろう。
なぜプロ棋士の道を選ばなかったのか?
しかし、その決断に至るまでに、彼の中に確固たる指針があった。
そもそも棋士を目指す養成組織である「奨励会」に入らないことを決めたのは、前述した大会での優勝から1年後、小学校4年生でのことだった。
「奨励会を受けなかった理由は2つあるんです。まず、極端に言うと当時、将棋を指すという行為が“嫌い”だったんですよ」
勝つことを宿命づけられていた感じがあった
将棋というゲームに関しては割と好き嫌いがない――いや、今現在も指していると「面白いと感じますし、語弊があるかもしれませんが“自分は将棋に向いている”というのは常にあるんです」とも話す姿からは、本当に将棋が嫌いとは思えないのだが……。
川島さんは当時の心中について、こう回想する。
「小学生くらいから、勝つことを宿命づけられていた感じがあったり、周りの大人からも〈プロになるんだよね?〉〈タイトルも狙えるのだろう〉という風に思われていて、そういったプレッシャーのようなものを抱えながらずっと将棋をやっていたんです。その怖さが蓄積されていくことで、“将棋を指す”行為が嫌いになったんだと思うんです」
同じほどの努力量を人生でささげるのなら…
力があるがゆえに過度な期待をされてしまう。その重圧が遠因となり競技から離れてしまう人は多い。川島さんは将棋の世界で、その苦しさを味わっていたのだった。
もう1つ、プロを目指さないと決めた理由として挙げたのは、1年に4人しか四段昇段ができない、すなわちプロになれないという「奨励会」のハードルの高さだった。
「奨励会は、かなり厳しい制度です。そもそも奨励会自体に受かる時点で天才なわけですし、その天才が集う中でさらにしのぎを削って、超天才かつ努力を続けた人だけがプロになれる。それと同じほどの努力量を人生でささげるのなら、棋士を目指すより、一般社会でした方が(リターンが)いいのでは……と、言い方は悪いかもしれないのですが、判断したんです」
彼の本当の強さが分かったのは小2の春
川島さんは「自主性を尊重してくれる親だったので、自分の決めた道を思い通りに歩ませてくれました」と両親にも感謝していた。年の頃なら10歳にして、その現実的な未来予想を行っていた頭脳明晰さにも驚かされる。川島さんは「プロになったとして、どこまでやれるかなということには興味があるんです。ただその道を選ぶべきだったとは思わないし、その選択にも後悔は全くなくて、心が動くことはないんです」とも語る。自分をこれほどまで客観視できる人物も、珍しい。
そんな川島さんにとって、人生の指針を決める上で大きな影響を与えた人物がいる。それが、「たっくん」こと伊藤である。
川島さんと伊藤が初めて出会ったのは小学校1年生の夏ごろ。それ以降、同じ将棋クラブで腕を磨き合った間柄だった。とはいえ当初は、伊藤の棋力が圧倒的に上で、コテンパンに負かされた。
「最初に出会ったのは小1の7~8月で、実力差がありすぎたんです。そこから徐々に自分にも棋力がついてきて〈ちゃんとした将棋になりはじめてきたかな〉と思い始めていた。だけど彼の本当の強さが分かったのは小2の春から夏前のことで〈これは本物だな〉と思ったんです。終盤力がズバ抜けていて、終盤にすごく突き放される。あるいは優勢だったはずの将棋で大逆転負けを食らったりして、他の人と違うというのは感じざるを得なかったんです」
ただそれと同時に、本人が「将棋に向いている」という気持ち――負けん気も燃えていた。
あの時はほとんど差はないという感覚でした
「僕も負けず嫌いなところがあるので、実力が圧倒的に雲の上だとしても、彼を目標にするしかない。〈いつか追いついてやろう〉という気持ちは、最初に負けた時から持っていたんです」
たっくんに追いつくために――川島さんは「土日だと1日10時間は平気でやっていましたね」というほど、将棋に心血を注ぎ込んだ。その思いを持って実力を磨き上げ、大舞台で伊藤に勝利したのが、冒頭に触れた小学生大会である。
「ずっと当時2人で相矢倉をやっていて、対局の95%が相矢倉だったんです」
当時、将棋界の頂点に立っていたのは、羽生善治・現日本将棋連盟会長と、大会に出席していた森内だった。名人戦を筆頭にしたゴールデンカードでは相矢倉での戦いが多く、2人は自然とその形で戦っていたそうだ。その中で伊藤の変化に川島が対応し、見事勝利したのだった。
「あの時はほとんど差はないという感覚でした。やれば勝率45%くらいはあるなっていう距離感でした」
尻尾はつかみかけるんだけど…
ただそれと同時に、強くなる過程においてこんな気持ちも感じていたのだという。
「だんだん尻尾はつかみかけるんだけど、また逃げられちゃう。そんな状況が続いていたんです」
差を詰めたはずなのに、また少しずつ引き離される。川島さんは、徹底的と言っていいほど将棋に一意専心する伊藤の姿勢に「プロ棋士を本気で目指す人物」の凄みを感じていた。
<続く>