「いやいやいや…」藤井聡太“まさかの一手”に控室が騒然、解説者は絶句…伊藤匠が迫り、八冠に起きた異変 藤井聡太「初失冠の1日」
伊藤匠との叡王戦第5局、途中まで評価値では勝利へと到達する「藤井曲線」を描いていた藤井聡太だが、後手の伊藤が食い下がり終盤へと突入すると…
同学年にして将棋界の絶対王者。その藤井聡太八冠を破っての初タイトルとなれば、何かしらの感情が去来するのではないか。
いや、そんな素振りはなかった。万感極まることなく、笑顔を浮かべることなく、これまでと同じ姿に映った。
終局から約7分後、新叡王となった伊藤匠は終局直後も――これまでの藤井との対決と同じように――滔々と歴史的な一局を語っていた。(Number Webノンフィクション。棋士の段位などは当時のもので、初出以降省略。全2回の第1回/伊藤匠「初戴冠」編はこちら)
決戦の間「九重」
2024年6月20日、第9期叡王戦第5局。藤井と伊藤の21歳同士が相まみえた五番勝負の最終舞台は、山梨県甲府市にある老舗の常磐ホテルが会場となった。玄関を入ると雄大な日本庭園を望み、その左奥方向の離れに“番勝負の間”とも言われる「九重」がかすかに見える。
2階のスペースに上がると「名人の小径」というスペースがある。常磐ホテルはタイトル戦が終盤までもつれた際の会場になることで有名な場所でもある。それゆえこの場所には、過去の対局の写真、さらには名棋士たちの揮毫した色紙が飾られている。
その品々を見ていくと、羽生善治王座がフルセットの末に中村太地六段を振り切って防衛、渡辺明棋王が糸谷哲郎竜王を下して竜王奪還、永瀬拓矢王座が振り飛車の雄・久保利明九段相手に初の王座防衛……といった具合にだ。
八冠獲得以来の熱気
そこには七段だった頃の藤井が「飛翔」と記した色紙、さらには豊島将之二冠としのぎを削った2021年の叡王戦第2局(考えてみればタイトル戦フルセットはこの時以来だ)の写真もあった。
「ああ、この対局場で藤井先生はもちろん、伊藤先生もまた、歴史を紡ぐんだね」
大盤解説会を見るために訪れたファン3人組が、顔をほころばせながら将棋史をたどる様子が印象深かった。
大盤解説会のスタートは14時だった。その時刻に合わせて、取材記者控室に入室する人々、さらにはカメラクルーも増えた。控室には25人ほどが着席できる長机は2つあったが、おやつで『ペコちゃんのほっぺ』などが紹介された15時頃にはすぐ埋まり、電源コンセントが足りなくなるほど。藤井の地元である愛知県名古屋市で行われた叡王戦第3局がペン記者を中心に20人ほどだったことを思い出すと、世間的な注目度が昨期の王座戦第4局――藤井が八冠達成を成し遂げた一局――以来の熱気を感じた。
大盤解説の松尾八段が「難しい…」
対局画面に集中すると、評価値はややわずかに藤井の方に傾いた状況だった。
ここで気になったのは、隣接する大盤解説会場である。
大盤解説会の会場には、2つの大型スクリーンがある。対局する2人の姿、天井カメラからとらえた「評価値が表示されていない」現局面である。ここでは解説役の棋士も、対局する棋士と同じ感覚で考えを巡らせている。
例えば渡辺棋王と藤井五冠が新潟市内で相まみえた2023年の棋王戦第3局でのこと。両者1分将棋の中で評価値が〈99%-1%〉と〈1%-99%〉を激しく行き来する最終盤を戦った末、渡辺に軍配が上がった。対局した2人の鬼気迫る表情はもちろんだが――大盤解説会を担当した高見泰地七段が、相当の読みを必要としたため終局後に息切れするほどに消耗していたのが印象に残っている。
叡王戦第5局、解説を担当した松尾歩八段も、手に頭を当てつつ、何度かつぶやきながら大盤を操作していた。
「難しい……」
ギャラリーの中には、評価値が表示されるABEMAでの中継や将棋連盟ライブ中継に視線を落とす人もいた。しかし大盤解説会に映し出される映像は、スマホに映る画面よりも数秒から数十秒だけ早い未来がある。藤井が髪をかき上げ、伊藤が頬杖をついて必死の思考ぶりを見せる様子に、さまざまな席から言いようのない嘆息が漏れた。
記者控室にうめき声が…
「まだまだ先が長いですね」
松尾八段が繰り返した言葉に、緊迫した会場からようやく笑い声がこぼれた。しかしそこから数分して、藤井が固めた先手玉に対して、伊藤がじわじわと迫りつつあった。
「後手が面白くなっているようにも、見えますね」
記者控室に戻っても、一手ごとに「いやあ」「ううむ……」と、持ち時間が徐々に少なくなっていく中で、紙面の締め切りに間に合うかどうかの電話打ち合わせなどとともに、うめき声が広がる。
17時17分 「6四桂」で形勢が大きく動く
叡王戦の持ち時間は八大タイトル戦の中で最も短い各4時間ごとで、「3分58秒」「12分11秒」といった感じで秒単位で記録されるチェスクロック方式が採用されている。持ち時間を互いに消費し、藤井が先に計4時間を使い切り、伊藤も「1分将棋」の入口に立とうとしていた。
そんな終盤も終盤、評価値が示す形勢が大きく動いたのは17時17分のことだった。
131手目、藤井が「6四桂」と打った一手だった。ABEMA解説を務める2人の棋士が指し手を告げたのみで言葉を継げないでいると、伊藤に評価値が大きく動く。それは「将棋連盟Live」の評価値に目をやっても同じだった。
「いやいやいや……ついに……」
両者は1分将棋へと突入
藤井のタイトル連続獲得記録「22」がストップ、そして初失冠、すなわち八冠独占が崩れる瞬間が訪れるのか。
記者控室のどよめきが大きくなる中で――映像の藤井は右拳で膝を叩きつつ、ため息が漏れる。伊藤はそれを察知しつつ盤上を見つめる。これまでになかった構図と緊迫した場面が画面に映し出される。両者は1分将棋へと突入した。
<つづく>