「尼将軍」の権勢、秀吉との関係…金剛峯寺の歴史ひもとく企画展
総本山金剛峯寺本坊の大主殿。青巌寺だった江戸時代末期に建立された=2023年5月30日、和歌山県高野町高野山、大野博撮影
平安時代の開山から明治時代の「総本山金剛峯寺」の成立を経て現在まで、その時々の政治権力と切り結びながら信仰を永らえてきた、高野山の約1200年の歴史をひもとく企画展が、和歌山県高野町の高野山霊宝館で開かれている。
青巌寺境内の護摩堂にまつられていた不動明王坐像・二童子立像が展示されている=2024年4月19日、和歌山県高野町高野山、大野博撮影
展示資料などによると、弘法大師空海が高野山を開いた当初は、山上の「一山境内地」、つまり高野山全体が金剛峯寺と呼ばれていた。「永遠に守り続けなければならない最上最尊の峯(みね)」を意味するという。
山内や周辺に寺院が増えるにつれ、教学の違いなどによって僧の派閥が生じるようになったという。
企画展では、鎌倉幕府を開いた源頼朝の妻で、頼朝の死後は「尼将軍」とも呼ばれた北条政子の直筆と伝わる書状の展示もある。政子は高野山内に寺院を建立し、非業の死を遂げた息子・源実朝の菩提(ぼだい)を弔うため、のちに寺号を「金剛三昧院(さんまいいん)」と改めた。政子の権勢を背景に、一時は金剛三昧院方という派閥を構えたという。
室町時代以降、山内の寺院と僧は「学侶方(がくりょがた)」「行人方(ぎょうにんがた)」「聖方(ひじりがた)」の三つの派閥に分かれた。
安土桃山時代になると、豊臣秀吉は天下統一の過程で「紀州攻め」を実施。現在の岩出市にある根来寺を武力で制圧し、焼き払ったが、高野山は武将出身の僧・応其(おうご)のとりなしで戦わずして降伏し、堂塔や僧たちの人命が守られた。秀吉は一転して高野山の再興に力を注ぐようになり、母の供養として遺髪を納めるために青巌寺(せいがんじ)を建立。ここが学侶方の本山となる。他方、行人方の本山・興山寺を建立したのは、秀吉の信頼を勝ち取った応其だった。
明治時代になると、中央集権化の一環として諸宗教の統制を進める新政府が「三派廃止沙汰書」という通知を発する。これに従い、三つの派閥は解消され、青巌寺と興山寺が合併して総本山金剛峯寺となり、山内の子院全体の本山に位置づけられたという。
三派廃止沙汰書のほか、こうした派閥の盛衰を示す絵図や文書も展示されている。
現在の金剛峯寺の寺紋は「五三の桐(きり)」と「三つ巴(どもえ)」がセットになった珍しいもので、桐の方は青巌寺が秀吉から家紋を拝領したのが由来とされる。展示の中にある、威厳ある姿で描かれた秀吉像は、1797年に青巌寺に奉納されたものという。
学芸員の鳥羽正剛さんは「秀吉の死から200年もたった時代にも、秀吉を慕い、神格化した図像を制作して奉納する人物がいたことはたいへん興味深い。高野山と秀吉の関係性を物語るエピソードでもある」と話している。
企画展「金剛峯寺―その成立と宝物」は、前期が6月2日まで、後期は6月4日から7月15日まで。(大野博)