たたら製鉄、古代「製鉄コンビナート」で10回目の挑戦 謎解けるか
再現した高さ2メートルの竪形炉で製鉄に挑むも、9回目の昨年は炉内の温度が上がりきらずに失敗した=2023年6月18日午前0時43分、福島市の立子山、岡本進撮影
飛鳥時代から平安時代にかけ、福島県の浜通りは国内有数の「製鉄コンビナート」だったと言われている。東北の中心地だった多賀城(宮城県多賀城市)にも鉄は送られ、蝦夷(えみし)征伐に使われていたとみられる。だが、現代の研究者たちが福島県内で再現しようとしても、うまくいかない。10回目となる挑戦が29日にある。
再現した高さ2メートルの竪形炉で製鉄に挑むも、9回目の昨年は炉内の温度が上がりきらずに失敗した。炎の状況を確かめる吉田さん(手前)=2023年6月18日午前0時18分、福島市の立子山、岡本進撮影
県文化センターの遺跡調査員だった吉田秀享(ひでゆき)さん(63)=現・川俣町歴史・文化係長=が中心になり、福島市の立子山で最初に挑んだのは2013年だ。国の史跡に指定されている横大道(よこだいどう)製鉄遺跡(南相馬市小高区)の竪形炉(たてがたろ)をモデルにした。奈良時代の8世紀後半に使われていた炉だ。
大きな謎があった。製鉄炉は、長さ1~2メートルのバスタブのような箱形と、直径1メートル前後の煙突のような筒状の竪形の2種類がある。浜通りでは、飛鳥時代の7世紀後半に箱形炉が導入され、奈良時代の8世紀後半に竪形炉が使われるようになった。関東地方では、箱形炉から竪形炉に転換したが、浜通りでは全国的に珍しく、両方の炉が併存し続けた。どうしてなのか。
竪形炉は、上から砂鉄と炭を入れ、空気を送り込んで温度を上げて砂鉄を溶かす。炉の下の穴から、どろどろとした鉄が出てくるという仕組みだ。竪形炉の復元実験を続けているのは、ここしかなく、製鉄遺跡の研究者らが全国から集結する。実験を終えるたびに炉を分解し、侃々諤々(かんかんがくがく)と失敗点を分析し、次に挑む。初めてまとまった鉄の生産が確認されたのは、5回目となる2016年だった。砂鉄33・9キロ、木炭150キロを順に投入し、11時間20分操業し、8・95キロの鉄塊ができた。炉の高さや内径、投入する量や間隔などを毎回変えて臨む。国内の古代からの製鉄法「たたら製鉄」の名称は、炉に空気を送り込むのに使うシーソーのような「鞴(ふいご)」が「たたら」と呼ばれていたのに由来するが、実際に試してみると、空気の脈動が生じて火力が強くなる効果があった。しかし、8回目では、生成物はわずか1・2キロに。失望感が広がった。
ただ、回数を重ねたことで、謎は解けたと吉田さんは考えている。竪形炉は、鉄の産出量が箱形炉の半分以下と推測される一方、築くのに必要な粘土量が2割以下で済み、操業時の人手もかからない。失敗する生産量を問わなければ、竪形炉の方が扱いやすい。浜通りの砂鉄は、チタンの含有率が高く、それが実験の失敗を重ねた要因でもあった。「私たちの実験ではうまくいかないが、これまでの調査や文献で、竪形炉は、産出量が少ないながらも確実に鉄が生産できるのに対し、箱形炉は、成功すれば産出量は多いが、失敗も多いということがわかっている。良質な砂鉄がない浜通りでは、リスク管理として、あえて両方の炉を使っていたに違いない」
だが、新たな謎ができた。チタン含有率が高い砂鉄で製鉄するには、ひと手間かけていたはずだ。それがどんな手法なのか。吉田さんたちにはまだ見当もつかない。でも、実験を続けていれば、きっとたどりつくと信じている。
10回目に使う炉は、2カ月ほどかけて先週完成させた。29日は、5時間以上かけて炉を温めた後、砂鉄を投入する。全国から50人が集まってくる。(岡本進)
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〈浜通りの製鉄遺跡〉 新地町、相馬、南相馬両市を中心に、都道府県別で最も多い61の古代製鉄遺跡が見つかっている。金属の鉄はもともと自然界には単体で存在しない。炉の中で原料となる砂鉄を木炭などで燃焼させて溶かし、炭素と組み合わせることで製鉄する。阿武隈高地は炉を造る良質の粘土が採れ、ここから太平洋に流れる川の広い河口では砂鉄がたくさん採れる。大量の木炭となる木材も豊富で、砂鉄、粘土、木材の3条件がそろっていた。