「天皇の処刑」に備えた作戦のため「選抜された隊員たち」に、なぜか「自決」が命じられたワケ
私が2023年7月、上梓した『太平洋戦争の真実そのとき、そこにいた人は何を語ったか』(講談社ビーシー/講談社)は、これまで約30年、500名以上におよぶ戦争体験者や遺族をインタビューしてきたなかで、特に印象に残っている25の言葉を拾い集め、その言葉にまつわるエピソードを書き記した1冊である。日本人が体験した未曽有の戦争の時代をくぐり抜けた彼ら、彼女たちはなにを語ったか。
降り注ぐ黒い雨
「離陸してみると、長崎上空は黒雲に包まれ、その下は雨が降っているようでした。一通りの飛行テストを終えて、午後3時頃、着陸前に雲の下に入ってみたんです。地上は完全な焼野原だったですね。真黒な雲が広がっていて、雨がザーッと降っていて。高度500メートルぐらいで、残骸と化した浦上天主堂のまわりを旋回して見てみましたが、そりゃあ酷いもんでしたよ」
と、歴戦の戦闘機搭乗員だった佐々木原正夫・元少尉(1921-2005)は語る。
佐々木原正夫氏。1997年、松島にて(撮影/神立尚紀)
佐々木原は昭和14(1939)年、甲種飛行予科練習生四期生として海軍に入り、空母翔鶴零戦隊の一員として、昭和16(1941)年12月8日の真珠湾作戦(機動部隊上空哨戒)を皮切りに、翌昭和17(1942)年、史上初の空母対空母の戦いとなった珊瑚海海戦、アリューシャン作戦(臨時隼鷹乗組)、そしてガダルカナル島攻防戦、南太平洋海戦などの激戦に参加、空母瑞鶴に異動して昭和18(1943)年2月、ソロモン諸島の戦いで重傷を負った後は、主に戦闘機の空輸任務と、新鋭機紫電、紫電改の、実戦部隊に配備される前のテスト飛行に任じていた。
昭和20(1945)年7月末、紫電改で編成された第三四三海軍航空隊(三四三空)戦闘第七〇一飛行隊に転勤を命じられ、長崎県の大村基地に着任した。当時23歳。
「大村に赴任したのは、すでに全軍が、来たるべき本土決戦に備えている時期で、もしも米軍が九州に上陸してきたら、三四三空は全力を挙げて迎え撃ち、一週間以内に総員が戦死するという見込みを聞かされました。『なんだ、俺たち、みんな死ぬのが決まっているのか』と。仕方ない、ここで死ぬんだな、と覚悟を決めました。ただ、三四三空では、一度だけ敵艦上機の邀撃に出撃したものの、私自身、空戦はありませんでした」
8月9日午前11時2分
8月9日――。
「当時はもう、燃料が足りないので飛行作業は1日おきとされ、この日はトラックを十台ぐらい連ねて、搭乗員総員で飛行場裏手の山登りに行きました。三四三空には戦闘七〇一、三〇一、四〇七の各飛行隊があり、それぞれ30何人かの搭乗員がいましたから、かなりの人数です。途中、私たちの乗ったトラックが故障して、修理の間、たまたまアイスキャンデー屋があったので、みんなでなかに入ってアイスキャンデーを食べていました。
昭和15年、飛行練習生の頃の佐々木原正夫
すると突然、ガラスがビリビリと震えて、しばらくしてドーン、とものすごい音がした。爆撃か?
と外に飛び出すと、南西の方向の青空に、真白い大きな玉が上がっていくのが見える。その真白い玉の間から真赤な炎がはしり、そこがすぐ水蒸気に包まれて、まん丸い玉が大きくなりながらゆっくりと上がってゆく。
あれはなんだ?
広島に落ちたのと同じ『新型爆弾』じゃないか、そうだそれだ!
などと口々に言いながら、とはいえ、どうしようもないので山頂までは行き、弁当を食べながらきのこ雲を観察すると、どうやら爆弾は長崎に落ちたようでした。それを見ながらみんな無言になってね……。そのまま帰路について、基地に戻ったのは午後2時頃でした」
たった一発の爆弾で
大村基地に帰ると、戦闘七〇一飛行隊の整備員が、佐々木原に整備のできた紫電改のテスト飛行を依頼してきた。ベテラン搭乗員の多くが戦死し、いまや佐々木原以上にテスト飛行の経験が豊富な搭乗員は、ほとんど残っていなかったのだ。
「大村基地と長崎は、直線距離で20キロ足らずですから、飛行機なら目と鼻の先です。高度をとって急上昇、急降下、そして宙返りやクイックロール、スローロール、垂直旋回など、エンジンの調子も見ながら特殊飛行を実施してテスト飛行を終え、しかし、どうにも長崎の状況が気になったので黒い雲の下に入ってみた。放射能のことなど、そのときは知らなかったですからね。
――雨の降るなかを低空で見た長崎の情景は、一生忘れられません。浦上天主堂の残骸はかろうじてわかりましたが、一面、廃墟となって人の気配も感じられない。思わず息を呑みましたよ。たった一発の爆弾でこんなふうになるなんて、これまで長く戦ってきた経験からも想像つかない。惨状という言葉では足りない、あまりに酷いありさまでした」
昭和16年、真珠湾攻撃前の空母翔鶴の零戦搭乗員たち。前列左から2人目が佐々木原二飛曹
昭和20年8月9日午前11時2分、米陸軍の爆撃機、ボーイングB-29が投下した一発の原子爆弾によって長崎市街は焦土と化した。この原爆による人的被害は、長崎市原爆資料保存委員会の調査によると、同年12月の推計で、死者73,884人、負傷者74,909人におよぶ。佐々木原は、原爆投下直後の長崎上空を、おそらく最初に飛んだ日本海軍の搭乗員となった。
「飛行機の調子はよく、着陸して『今日は非常にいいよ』と言ったら整備員は喜んでいましたが、私はいま見たばかりの長崎の光景が目に焼きついて、沈痛な気持ちでした……」
夜中になって、大村海軍病院に、長崎で被爆した重傷患者が次々と運び込まれ、海軍基地からも整備員や搭乗員の一部が救援に向かった。
腕の皮がズル剥けに
「私は、翌朝は当直で、『即時待機』(燃料、弾薬を満載し、命令があれば即座に出撃できる状態)に入ることが決まっていたので行きませんでしたが、帰ってきた連中が言うには、トラックの荷台から腕をつかんでひっぱり上げて乗せようとすると、腕の皮がズルズルと剥けるんだそうですよ。それで、痛い、痛いと、かわいそうで困ったとのことでしたね……」
そして8月15日。戦争終結を告げる天皇の玉音放送は、大村基地にいる三四三空搭乗員の総員が、飛行場に整列して聴いた。佐々木原の予科練の同期生は、この日までに264名中215名(約81パーセント)、戦闘機専修者にいたっては21名中19名(約90パーセント)が戦没している。
昭和17年6月、臨時に乗り組みアリューシャン作戦に参加した空母隼鷹で
「終戦を知らされて、人間って不思議なもので、みんなホッとした顔をしていましたね。これからどうなるか、先行きの見えない不安はありましたが」
15日午後、三四三空司令・源田実大佐は状況を確かめに、大分基地にあった第五航空艦隊司令部に飛んだ。さらに8月17日、司令は自ら紫電改を操縦、横須賀に向かい飛び立った。
源田司令が、大村基地に帰ってきたのは8月19日午前のことだった。このとき、司令は、東京で授けられてきた新たな任務を、出迎えた飛行長・志賀淑雄少佐に打ち明けている。
それは、近く連合軍が進駐してきて日本は占領されるが、天皇の処遇および国体(天皇を中心とする国家体制)の維持に対しては不透明なままであることから、天皇の処刑をふくむ最悪の事態にそなえて、皇統を絶やさず国体を護持するため、皇族の子弟の1人をかくまい、養育する、という秘密の作戦だった(皇統護持秘密作戦)。
自決を装った作戦
ことの性質上、作戦準備は隠密裏に進めなければならない。このとき、志賀少佐は、行動をともにする隊員を選抜するために一計を案じた。司令が自決すると装い、その供連れとなる覚悟のある者のみを、この作戦に参加させるというものである。
昭和17年6月、臨時に乗り組みアリューシャン作戦に参加した空母隼鷹で。前列左から3人目佐々木原正夫、中列右から3人目隼鷹飛行隊長(のち三四三空飛行長)志賀淑雄大尉
この日の昼、飛行場に三四三空の全搭乗員が集められ、源田司令が総員に「休暇を与える」として、部隊解散の訓示をした。司令が号令台から降りると、志賀少佐が、
「解散。ただし搭乗員、准士官以上は残れ」
と命じた。
そして残った者に、
「司令は自決される。お供したい者は午後八時に健民道場に集まれ」
と伝えた。健民道場は、飛行場の裏山の途中にあり、隊員の一部の宿舎としても使われている。
自決に反発した佐々木原
志賀・元少佐は私のインタビューに、
「司令とは事前に、『自決の直前までもっていきますから。みな拳銃に弾丸はこめさせます。銃をとるとき、私が“待て”と声をかけますから、そこでほんとうのことをおっしゃってください』と打ち合わせをしていました」
と語ったが、佐々木原の記憶は、志賀の回想とは少しニュアンスがちがう。
空母翔鶴艦上で、零戦二一型をバックに
「私は、司令が自決されるから、搭乗員総員、拳銃を持って道場に集まれ、と聞いたと記憶しています。われわれは寝耳に水で、なんで自決しなきゃいけないんだ、と反発しましたね。
飛行機に乗って、戦争して死ぬのはちっとも構わない。命が惜しくて戦争やってたんじゃない、飛行機で死ぬならいつでも死んでやる。負けたといっても、俺たちが負けたわけじゃない。われわれは一生懸命やるだけやったじゃないか。それを、国が負けたからって自決せよとはなにごとだ、と私ら行かなかったんです。部下たちも、戦って死ぬのならいいけど、いったい、なんの責任をとって自決しなきゃいけないんですか、とみんな言ってました。
――ずっと後になって、これは『皇統護持の秘密作戦の人員を選抜するための芝居』だったという事情はわかりましたが、まったくね、赤穂浪士じゃあるまいし、まるでわれわれの人格を疑って試されたみたいで不愉快でした。戦後、志賀さんに、あんなカラクリで私らをだましたんですか、と食ってかかったことがありますよ。誰だって自決なんてくだらないと思う、それより部下をみんな無事に帰してやるのがほんとうじゃないですか、と。
みんな、戦争をやってきた搭乗員ばかり。役に立ってきた自負があります。それならそうと、ちゃんと命令してくれれば不服は言いません。しかし、ただ自決、と言われてもね、理由もなく自決なんてできるもんですか」
家族のために働く
志賀少佐から搭乗員たちへの話の伝わり方に誤解があったのかもしれない。志賀は、
「不満はいっさい、私が負います。それほど大切な問題でしたから」
と言う。しかし、歴戦の搭乗員としての誇りが自決を拒んだ、佐々木原の気持ちは痛いほどに察せられた。
昭和18年、第一〇〇一海軍航空隊の頃。前列中央が佐々木原正夫上飛曹
戦争が終わり、海軍も解体すると、軍人だった者は新たな仕事を自分で見つけなければならない。父が森永食糧工業株式会社(昭和24年、森永製菓株式会社と改称)で総務課長を務めていて、息子を雇ってくれるよう会社に掛け合ってくれ、佐々木原は昭和21(1946)年1月1日付で森永に入社、三島工場で働き始めた。
昭和19年、局地戦闘機紫電に搭乗する佐々木原正夫
同年4月には結婚、自衛隊の発足時には、パイロットとして熱心なスカウトを再三にわたって受けたが、「飛行機は危ない」との妻の反対もあって断念、昭和53年(1978)に定年退職するまで、森永ひと筋に勤め上げた。
森永に在職中の昭和46(1971)年、佐々木原は、アメリカのエース・パイロット協会(American Fighter Aces Association)が、カリフォルニア州サンディエゴで開催する年次総会に招待を受け、かつての零戦搭乗員仲間とともに初めて訪米している。
「空戦は飛行機と飛行機の戦いで、相手の顔を見ることは稀ですし、戦いは一瞬で、そこへ行くまでの空への思いとか訓練とか、共通する部分が多いので、すぐに打ち解けられるんですが、やはり文化の違いとか、戦勝国と敗戦国の差を感じましたね。
しかし、あのときアメリカに行ったのはよかったですね。アメリカの軍事力、国力の一端に触れただけでも、よくこんな大きな国と戦争する気になったなあ、と、無知の恐ろしさを実感することができました。これは、頭で考えるだけでは駄目で、やはり行って交流してはじめてわかることだと思います」
誇りに満ちた言葉
戦争を振り返ってどう思いますか?
という私の問いに佐々木原は、
昭和20年7月、三四三空戦闘七〇一飛行隊集合写真(部分)。前列右から飛行長志賀淑雄少佐、司令源田実大佐、分隊長山田良市大尉。2列目右から2人目佐々木原正夫少尉
「『戦争とは何か』、とか、あんまり気の利いたことは言いたくないんですわ。戦争をくぐり抜けてきた人間としたら、戦争は起こすもんじゃないとは思います。勝っても負けても、その惨禍は想像を絶するものがありますからね。しかし、現実に戦争が世の中からなくなるということは、考えられないんじゃないか。
戦争をどう思いますか、と聞かれても答えようがない。世界中が平和になるか、というとならないじゃないか。いまも世界中、戦争の渦巻きじゃないか。
日本が戦争を放棄したら戦争が起こらなくなるわけじゃない。国それぞれに利害があって、宗教や人種や思想もちがう。そういう前提に立ってものを言わないと、『戦争をしない国』という概念的なものだけで国家を律し去ろうというのは大きな間違いなんじゃないかと思います。かつての帝国陸軍のように、世界を知らず独善的になっちゃ困るんですが、即発の事態への対応力を失ったら国は滅亡しますよ」
と言い、なおも言葉を継いだ。
昭和46年、日本の元零戦パイロットが米エースパイロット協会の招きで渡米。途中立ち寄った真珠湾のアリゾナ記念館にて。右端坂井三郎、左から5人目佐々木原正夫
「私らは戦っていたときに、はっきり言って『天皇陛下のために』なんて思ったことはありません。そのために死ぬなどというのはまやかしだと思っていましたから。
『上御一人』なんて、あれは陸軍の思想ですよ。海軍はもっと大らかだったんじゃないですか。そんな思想で縛られなくても、われわれは国民の負託を受けて、そのために戦う。いつどこで死ぬかはわからないが、それでいい、そんな気持ちでしたよ」
佐々木原は平成17(2005)年、死去。いまも「プロの戦闘機乗り」としての誇りに満ちた言葉の数々を思い出す。