MLBの観客10%増、デルタ航空の会員200万人増!「あり得ない」を実現する最新デジタルマーケティング戦略の“現在地”
最新のデジタルマーケティング戦略はどんなチャンスを生み出しているのか(写真はイメージです) Photo:PIXTA
マイクロソフトやグーグルでエンジニアとして活躍し、複数の企業で技術顧問を務める及川卓也氏は、「企業が変革を進めるにはデータのデジタル化と蓄積・活用が重要だ」と言います。米アドビ主催の年次イベント「Adobe Summit 2024」の基調講演で、大リーグ(MLB)幹部やデルタ航空トップが語った最新のデジタルマーケティング戦略について、及川氏が解説します。
エゴサのライバルは
『ハイキュー!!』の「及川さん」
皆さんは『ハイキュー!!』という漫画・アニメをご存じでしょうか。ハイキューとは排球、すなわちバレーボールのこと。高校バレーボールをテーマにしたこの作品は多くのファンを魅了し、コミックス全45巻の累計発行部数は6000万部を突破する人気作。つい最近も劇場アニメ「劇場版ハイキュー!! ゴミ捨て場の決戦」が公開されたばかりです。
私は最近までこの作品の内容を知らなかったのですが、実は以前から気になっていました。というのも、私はウェブやX(旧Twitter)で自身の名前を検索(エゴサーチ、エゴサ)することがあります。IT業界にいることもあって、フルネームの「及川卓也」では検索結果の上位に来るのですが、「及川さん」では強敵がいました。それが『ハイキュー!!』の登場人物「及川徹」なのです。
最近コミックをたまに読むようになり、やっとこの作品を読んでみたところ、もっと早く読めばよかったと後悔するほど楽しめました。特にこの及川徹は、優れたセッターとしてチームを牽引。試合中のカリスマ性と普段見せるある意味での“性格の悪さ”とのギャップが魅力で、作中の女子からも読者・視聴者からも、人気が非常に高いキャラクターです。
私も中学時代にバレーボール部に所属していたことがあり、体を壊してすぐにやめてしまいましたが基本的なプレイはできるし、今でも試合を見るのは好きです。そこで『ハイキュー!!』を読み始めて気づいたのは、当時とバレーボールのルールが大きく変わっていることでした。
国際バレーボール連盟(FIVB)が1947年に発足して以来、バレーボールのルールは定期的に改訂されています。
1998年に導入された「リベロ制」ではディフェンス専門のポジション「リベロ」を設置。リベロはアタックやブロックはできないものの、後衛としてサーブレシーブやディグ(アタックレシーブ)でチームに大きな貢献をするポジションです。身長の低い選手も活躍できるようになったほか、チームの守備力が上がり、試合がより戦略的になりました。
また、1999年には、従来のサーブ権を持つチームにのみ得点が入る「サイドアウト制」から「ラリーポイント制」へと移行。どちらのチームがサーブをしていてもポイントが入るようになり、試合の進行が速くなりました。
これらのルール変更は競技の魅力を高め、観客に試合をよりダイナミックに観せる効果をもたらしました。選手たちの技術や戦術も進化し、バレーボールはより多くのファンを魅了しています。
大リーグの「ピッチクロック」導入で
試合が劇的に変わった理由
バレーボールと同様、さまざまなスポーツでもルール変更が行われています。記憶に新しいところでは昨年、米国の大リーグ(メジャーリーグベースボール、以下MLB)が、競技をよりエキサイティングにするためとして、いくつか重要な変更を実施しました。
例えば、ピッチクロックの導入です。投手には投球までの時間制限が設けられ、走者がいるときは20秒以内(2024年シーズンからは18秒)、走者がいないときは15秒以内に投球しなければ、1ボールを取られます。このルールは、試合のテンポを速めるために導入されました。日本人大リーガーである大谷翔平選手や山本由伸選手も違反でボールを取られています。これらの制限時間はバッターの側にも存在します。
また、守備シフトの制限も行われました。守備側は内野手を二塁ベースの両側に2人ずつ配置する必要があり、過度なシフトが禁止されました。
さらに、ベースのサイズも拡大されました。ベースは従来の15インチ四方から18インチ四方へと大きくなり、ランナーと守備選手の衝突リスクを低減するだけでなく、盗塁の成功率にも影響を及ぼす可能性があります。
実際にこれらのルールの導入により、2023年シーズンの平均試合時間は前年比で約30分短縮され、盗塁数は40%増加しました。また、観客動員数も9.6%増加しており、これは新型コロナウイルス前の2019年よりも多い数字です。
一方で、ピッチクロックに関しては、投手の負担が増えているのではないかという声も上がっています。今後、再度見直される可能性も否定できませんが、よりよい観戦体験を目指すというMLBの姿勢は、他のスポーツだけでなく、一般のビジネスも見習うべき点があるでしょう。
2023年のMLB観客動員数は前年より9.6пј…еў—еЉ
デジタル化が進むMLB
データ駆動マーケティングの凄み
私がこのMLBの話を聞いたのは、米アドビ主催のイベント「Adobe Summit 2024」のキーノート(基調講演)でした。
Adobe Summitは毎年、米国ラスベガスで開催される大規模なカンファレンスで、同社のクラウドベースのデジタルマーケティングツール「Adobe Experience Cloud」に焦点を当てています。最新の技術トレンドの紹介に加え、著名なスピーカーや業界のリーダーによる講演やディスカッションなど200以上のセッションが行われ、デジタルマーケティングの未来を探る場として多くの専門家や企業が注目しています。
2024年のAdobe Summitは3月26日から28日(現地時間)に開催されました。特に注目されたのは、データを活用したユーザー体験の向上に関するセッションで、Adobe Experience Cloudを用いた効果的なマーケティング戦略の具体的な事例が紹介されました。また、今年のイベントではAIや機械学習を活用した新しいマーケティング手法についても多くのディスカッションが行われ、最新の技術でよりパーソナライズされたユーザー体験の提供について紹介がありました。
このAdobe Summitの基調講演に登壇したのが、MLB最高執行・戦略責任者(COSO)のクリス・マリナック氏です。マリナック氏は、デジタルを通じてMLBが行った顧客体験の改善について語りました。MLBではチケットのデジタル化を進め、2017年にはわずか14%だったデジタル化率が2023年には91%と大幅に増加しています。
MLBチケットのデジタル化率の推移
このデジタル化により、顧客データの収集と分析が進みました。以前の紙のチケットでは、顧客が初めて球場に訪れたのか、何度も足を運んでくれているのかすら分かりませんでしたが、デジタル化したことで、パーソナライズが可能になりました。例えば、顧客データに基づくターゲティングにより、大谷翔平選手の本拠地以外でも、その地域の球団広告ではなく大谷選手の広告を表示することが可能になり、ファンの興味や関心に合わせた広告配信が実現しています。
パーソナライズによりファンの興味や関心に合わせた広告配信を実現
アプリなどを通じて収集した
データで顧客体験を徹底的に向上
また、自社グループで運営するチケット購入システムの「Tickets.com」や「MLBアプリ」「MLB BallParkアプリ」「MLB.TV」といったアプリや配信サービスを通じて、顧客のデータを自社で収集し、顧客をより正しく理解することができるようになりました。
MLB BallParkアプリのユーザーが球場に到着すると、その位置に基づいた食事情報や席のアップグレードオファーが通知されます。選手がホームランを打った瞬間には、パーソナライズされたプッシュ通知が送られ、ホームランを打った選手のユニフォームを購入するためのリンクが提供されます。さらに、試合終了の30分後には、次の試合のチケットを購入するためのプッシュ通知も送られます。
チケットスキャンによる入場をトリガーとしたプッシュ通知
チケットスキャンによる入場をトリガーとしたプッシュ通知
試合終了後には次の試合のチケットが2割引で買えるオファーが通知で届く。シームレスかつパーソナライズされた通知により、顧客はより深い満足感を得られる
加えて、デジタルプラットフォーム上での顧客との接点も増加し、来場者のみならず、テレビでの試合の視聴率も向上しました。これにより、球場に来る人が本当はどんな人たちなのか、理解が進んでいると言います。これまでは多くのメディアで「ワールドシリーズの視聴者の平均年齢は55歳以上だろう」と言われてきましたが、実際には「MLB.TV」の視聴者の平均年齢は45歳でした。
また「Tickets.com」でのチケット購入者の年齢の中央値は44歳、顧客データベースにおける平均年齢は41歳で、2023年に新たにMLBのファンデータベースに加わった顧客の平均年齢は36.2歳だといいます。
また、ユーザーがサイトで商品をカートに入れた後で買わずに離脱してしまう、いわゆる「カート落ち」を防ぐための販促活動も自動化されました。顧客がチケットを購入しようとすると、アドビが提供するデジタルマーケティングの各ソリューションと連携して、チケット購入と野球場への来場を勧めるメールが自動的に送信されます。さらにAIによるセグメンテーションを活用して、どのファンが最も購買意欲が高いかを把握し、それを基にSNS広告を配信しています。この結果、通常の販売促進策と比較して非常に効果が高まっています。
MLBのデジタル戦略は、ファン体験を向上させるための多くの施策を取り入れ、成功を収めています。ファンの興味や関心に合わせてパーソナライズした体験を提供することで、MLBはより多くのファンを引きつけ、満足させることに成功しているのです。
デルタ航空が無料で高速の
Wi-Fiを機内で提供するワケ
キーノートには、デルタ航空のCEOであるエド・バスティアン氏も登壇しました。
今年、創業100周年を迎えたデルタ航空は、これまでにも9.11やリーマンショックなど数々の危機を乗り越えてきましたが、とりわけ新型コロナウイルスによる渡航禁止は創業以来、最大の危機でした。デルタ航空はこの危機を乗り越え、現在も強固な地位を保っています。
キーノートの中でバスティアン氏は、現在のデルタ航空がアマゾン、アップル、ウォルマート、eBayに次ぐ、米国5番目のECの小売業者であることを明かしました。デルタ航空の市場シェアは20%に過ぎませんが、利益は業界の40%を占め、非常に効率的な経営を行っています。
デルタ航空のユーザー体験の良さについては、私の以前の記事『日本企業のアプリには「おもてなし」の心が足りない』でも紹介していますが、デジタル技術を用いた体験と人による接客やサポートがシームレスに連携した結果、スマホアプリやウェブを通じて、フライトの選択、チケットの予約、マイレージプログラム、座席や食事の選択、ラウンジアクセス、そして預け入れ荷物の位置情報など、多岐にわたる顧客体験が提供されています。
私は今回もこのデルタ航空を使って、Adobe Summitが行われるラスベガスに向かったのですが、予定より早く到着したらスマホアプリに花吹雪が舞っていて、ちょっとした遊び心に感心しました。次のフライト予約、レンタカーやホテルなどのレコメンドも、顧客の行動や好みのデータに基づいてパーソナライズされています。
ロサンゼルスからラスベガスへは国内線を利用しましたが、機内ではWi-Fiが無料で提供されていることに気づき、驚きました。現在、デルタ航空では国内線のフライトで、デルタ航空のロイヤリティプログラム「SkyMiles」メンバーには無料でWi-Fiを提供しています。このサービスは2024年中に国際線にも拡大される予定です。
バスティアン氏は新しいサービスを提供する際、その体験が悪ければ企業にとってはマイナスとなる可能性があると述べています。デルタ航空は単に無料でWi-Fiにつながるだけでなく、高速のWi-Fiを提供することにより、最上の顧客体験の提供を目指しているといいます。
このWi-Fiを利用するための唯一の条件は、デルタ航空のロイヤリティプログラム「SkyMiles」に加入することです。加入はもちろん無料で、機内で加入することもできます。Wi-Fiはデルタ航空にとっては新しい新規顧客とのタッチポイントです。この施策の結果、2023年にデルタ航空は新たに200万人以上の会員を獲得しています。
さらにデルタ航空では、機内にあるすべてのシートスクリーンをスマートスクリーンに変えようとしています。スマートスクリーン化により、顧客は動画ストリーミングサービスなど、好きなものを好きなときに見ることができるようになります。現在はスマートスクリーンが搭載された機体が約100機飛行しており、今年末までには、国内線のほとんどの機体で使用可能になる予定だそうです。
デルタ航空は長期的な投資やプロジェクトにも積極的に取り組んでおり、現在はアドビと協力して、AIの分野で新たな取り組みを進めているとのことでした。
変革のカギはデータのデジタル化と
統一データ基盤の構築
デルタ航空とMLBのマーケティング戦略の例は、デジタルおよびデータを活用したものですが、こうした取り組みは生成AIによってさらなる進化を遂げていくでしょう。ターゲティングに基づくキャンペーン告知に使われるクリエイティブは、生成AIで自動生成されるようになり、キャンペーンの効果測定結果に基づき、生成AIが生成したキャンペーン内容は見直され、次の施策に生かされます。
変革を進めるものとして、MLBのマリナック氏は次の3つを挙げています。
1. 変革のための鍵となる基盤は、あなたの顧客/ファンに耳を傾けることである
2. 大きな変更は徹底的にテストして、それが正しいものであることを確かめる
3. 意味のある変革を行う目的と利益を理解してもらうために、主要な関係者を教育する
AI、特に生成AIはAdobeサミットでも大きなテーマとして取り上げられていましたが、日本はその活用においてまだ遅れている現状があります。
AIや生成AIを活用するには、その前提としてデータのデジタル化と蓄積、活用が重要になります。さすがにマーケティングのデジタル化は進んでいますが、日本企業の多くはマーケティング活動がサイロ化しており、カスタマーデータプラットフォーム(CDP)などの統一的なデータ基盤が構築されている企業はまだ少ないようです。
データをデジタル化し、統一したデータ基盤を構築することは重要です。ある日本企業では海外の先進的な企業を買収・提携して海外で事業を展開していますが、日本ではデータのデジタル化が進んでいないため、サービス展開が難しいといった状況があるといいます。
海外の先進企業では、データを蓄積し、統合して活用しています。AIによる予測をもとにオペレーションを効率化し、さらにデータを蓄積するといった、データ活用のサイクルが確立されているのです。
マーケティングに限らず、日本企業がデータ活用を進めるには、データのデジタル化と統一データ基盤の構築は不可欠です。これらをまずは実現することで、大リーグやデルタ航空の事例のような、デジタル化による恩恵を得る可能性も出てくることでしょう。
(クライス&カンパニー顧問/Tably代表 及川卓也、構成/ムコハタワカコ)