藤井聡太と伊藤匠の表情が一変した“ある質問”…伊藤匠「新叡王」誕生、“テレビに映らなかった”舞台裏「すごく汗をかいていて…」
対局後、感想戦を行う2人。2人の表情が動いた、記者からのある問いかけがあった
藤井聡太叡王と伊藤匠七段が真っ向からぶつかり合った、6月20日の第9期叡王戦五番勝負第5局。両者1分将棋に入る最終盤、評価値で優位を示していたのは伊藤の方だった。このまま行けば伊藤の初タイトル奪取、そして藤井の八冠独占が崩れる。果たしてどちらか。(Number Webノンフィクション。棋士の段位は当時のもので、初出以降省略。全2回の第2回/前回はこちら)
頭をよぎった去年秋の逆転劇
その瞬間を待つテレビクルーはこうつぶやく。
「何があるか分からない。ほら去年の秋も、そうだったよね」
去年の秋――王座戦第4局。2023年10月11日、京都で行われた八冠決定の対局である。藤井の2勝1敗で迎えた一局は永瀬拓矢王座(当時)が藤井相手に抜群の指し回しでタイに持ち込むかと見られたが、藤井が仕掛けた一手で形勢が一気に大逆転。その対局を想起する人がいたとしても、不思議ではない。
しかし、いま対局場「九重」で起きている展開はむしろ、5月2日に行われた叡王戦第3局に近いのかもしれない。
藤井の地元である愛知県・名古屋市の東急ホテルで開催された一局は、ABEMAで解説した中村太地八段も〈藤井叡王がやや抜け出しそうになったところ、伊藤七段が競り合った末に抜け出して逆転勝利を飾った〉とNumberWebで解説しているように、伊藤が終盤の競り合いで藤井より一歩先に抜けての勝利となった。
18時32分 藤井八冠、投了
本局も、そのリプレイを見るかのようだった。
王座戦第4局、叡王戦第3局と同じく、藤井は最終盤で逆転への手がかりを手繰り寄せようとしていた。それでも伊藤は1分将棋の中でも一手一手、丁寧にかわしていく。藤井の評価値が〈1%〉を示した辺りから、控室にはこんな言葉も漏れ出てきた。
「先手番の藤井に2勝するとは……」
飲み水に2度口をつけた八冠が20秒を残し、頭を下げる。18時32分。藤井の八冠独占が崩れる瞬間までの数分間は、静かな空気が流れていた。
ここから記者陣は対局場へと向かう。夏至前日ということもあってまだ明るさが残る中、鯉が泳ぎ、あじさいの咲く庭園を抜けて「九重」へとたどりつく。
藤井聡太は長考を続けていた
約8畳と12.5畳の和室に到着すると、一瞬肌寒く感じるような少しひんやりとした空間が広がっていた。
藤井は番勝負を終えて「初めて」勝者のコメント後に話すことになる。映像ではインタビューを受ける側の表情を捉えるため、対局者の表情はなかなか画面に映らないが――伊藤の左肩越しから見える藤井の姿もまた、強く印象に残った。対局の最終盤、前髪をかき上げるなど必死に状況を打開しようとする様子は映像でもはっきりと確認できた。しかしそこから数十分後、伊藤のコメントを聞く藤井は、これまで見てきた対局後と変わらない。感情の揺れを感じさせない、もし内面にあったとしてもそれを制御している姿だった。
「これで3勝2敗となりましたが、この五番勝負、振り返られていかがだったでしょうか」
「そうですね……全体的に厳しい将棋が多かったと思うので、運が良かったかなと思っています」
このような記者と伊藤のやり取りの際には、活字にはならない数秒の沈黙が生まれる。その際に藤井は、人差し指、中指、薬指を顎に当て、小刻みに体を前後させていた。盤面を見つめ、時に上方を見るその姿は、まるで映像で目にする長考中の姿そのものだった。
藤井が笑った「ある質問」
世間では当然ながら八冠陥落という結果が騒がれる。しかし藤井聡太七冠は――その事実から超越した空間を生きているように――これまでのタイトル戦での奪取・防衛劇の直後と同様、凛とした受け答えをしていた。
2人の表情がそれぞれ動いたのは「同世代のタイトルホルダーが生まれまして、そういったライバルがいることはどう受け止められていますか?」という質問を受けた時のこと。藤井は「はい、そうですね……」と間を置きながら二度繰り返すと、少し笑みがこぼれた。
一方の伊藤はどうだったか。藤井が「この叡王戦でも、その実力を本当に感じるところがすごく多かったので」と口にした瞬間、ふと一瞬目を閉じたのが印象に残った。
ICレコーダーに残った刻まれた時間は、16分43秒。終局直後のインタビューが終わると、2人は大盤解説会場への挨拶へと向かった。
貞升南女流二段が見た新叡王の汗
伊藤と藤井が大盤解説会の会場に到着した。それぞれマイクを持つと関係各所へのお礼を口にするとともに、対局を振り返る。すると会場に詰め掛けた約400人、さらに関係者と波及して5秒、10秒……25秒ほど、万雷の拍手は鳴りやまなかった。
2人が去ってほどなく、聞き手を務めた貞升南女流二段の言葉が、数十分前まで繰り広げられた激闘を何より物語っていた。
「伊藤新叡王の横に立っていましたが、すごく汗をかいていて……体力を使われているのを実感しました」
20時23分 伊藤匠はカメラの前で微笑んだ
40分ほどの感想戦を終えたのち、少しの時間が空いた後に伊藤新叡王誕生を受けての記者会見が始まった。タイトル獲得者となって初めての公の場ということもあってか、花束をもらう伊藤の表情は対局中のように真剣な表情だったが……。
「笑顔、お願いします!」
数多くのカメラに囲まれる中、21歳の新王者から柔らかな笑みがこぼれたのは、20時23分。自身1期目のタイトル獲得が決まった瞬間から111分後のことだった。
明けて21日9時。梅雨入りで雨が降りしきる中、伊藤新叡王の一夜明け会見は始まった。
会見場のカメラクルーは昨日の対局直後の会見に比べるとやや少なかった。その中でスーツ姿で現れた伊藤は、前日夜よりも少しくだけた質問に相好を崩す場面もあった。
タイトル奪取の地・山梨で帰京までにやりたいこと、師匠である宮田利男八段から“25歳までお酒とギャンブル禁止”の言いつけについてなど……それに答える姿は、満面というより穏やかな笑みを浮かべていた。
淀みなく語られた反省点
そんな伊藤が一番淀みなく話したのは、やはり将棋のことだった。
前日の96~99手目付近の進行について質問を受けると、スラスラと棋譜を口にする。そして自らの読みで軽視した部分を課題に挙げつつ、このように話していた。
「本譜は消去法で選んだというところがあります。ただ思いのほか、先手がよさに結びつける順がすぐには見つからなかった、というのは幸運だったと思います」
誰にも見られていない時でも将棋のことを考えている
この言葉を聞いて思い出したのは、川島滉生さんが語った〈伊藤将棋の凄み〉である。
川島さんは伊藤と同学年で親交があり、小学校時代に伊藤と藤井が出場した大会――当時9歳の藤井くんが号泣した対局として何度も映像で紹介されている――で優勝を飾った実績を持つ。その一方で、同じ将棋クラブで切磋琢磨した伊藤について、このように感じていたそうだ。
「彼は空き時間、誰にも見られていない時でも将棋のことを考えている。つまり、生活に必要な時間以外は全て将棋にささげていて、努力量がケタ違いだったんです」
色紙に書いた「孤髙」の字
会見を終えた伊藤は色紙に「孤髙」と記した。「高」ではなくいわゆる“はしご高”を使った理由は「はしご高で揮毫される棋士の先生もいらっしゃるので……」とのことだが、棋士になった頃から長らく記してきたものともいう。
「自分の中でしっかりと信念をもって、高みを目指して」
藤井聡太に続く21歳の新たなタイトルホルダー。伊藤匠もまた、将棋という深遠の世界を切り拓こうとしている。
<前編とあわせてお読みください>