「そんなに毎回面白いことは浮かばない」55年間『笑点』に出続けた、林家木久扇の86年

「そんなに毎回面白いことは浮かばない」55年間『笑点』に出続けた、林家木久扇の86年

落語家・林家⽊久扇(86)撮影/佐藤靖彦

 多才な人である。同時に、何でもやってみる人である。

 この春、人気長寿番組『笑点』(日本テレビ系)を卒業した落語家の林家木久扇(86)から受けるのは、そんなバリエーション=変奏だ。

落語家・林家木久扇、これまでの歩み

「自分の中に7、8人が住んでいるような感じがしますね」

 とは本人の弁。

 あくまでも木久扇の人生の主題になったのは「落語」である。とはいえ、落語をしゃべっていれば自分の人生に納得するタイプではなく、落語家であると同時に、イラストを描き、俳句を詠み、現在へと続くラーメンブームの火つけ役でもあり、レコード『いやんばか~ん』(1978年発売)を10万枚以上セールスした歌い手であり、という具合に、木久扇という素材を多方面に展開してきた。そのどれもが一定の成功を収めるという、ラッキーに守護された人生。

「人生のすみずみに、指針を言ってくれた人がいたんです」というこれまでの歩み。漫画家の清水崑先生のすすめに乗って落語家へ転身し、立川談志師匠のひと言で『笑点』の立ち位置を決め、『笑点』卒業に当たってはおかみさん(木久扇夫人の豊田武津子さん)のひと言が背中を押した。

 指針を示す人に導かれつつの落語家生活は64年目。『笑点』でのイメージは、黄色い着物のおじさん、面白いことを言う与太郎キャラ、だが、それはあくまでも一面に過ぎない。'00年の胃がん、'14年の喉頭がんを乗り越え、落語家として生き延びた多才=多彩な人生を、ご本人や弟子、息子、『笑点』プロデューサーの証言から読み解く。

絵の才能と仕事に目覚めた少年時代

 木久扇のイメージカラーでもある黄色の着物。そこにも込められた戦略があった。

「テレビって若い方は知らないと思いますが、昔はモノクロ、白黒でした。それがカラーになったとき、好きな色を選べたんです。

 子どものころから絵を描いていたので、最初に目につく色が黄色だと知っていた。通学の児童の帽子も黄色、ランドセルのカバーも黄色、注意を促す交通標識も黄色が多いでしょう」

 子どものころから身についていた絵心が功を奏した。

 1937(昭和12)年、日本が戦争へと突入するきな臭い時代、東京は日本橋久松町に豊田洋少年は生を享けた。下町の、粋な風景に暮らしは包まれていた。

「近所には三味線の音色がいつも流れていて、明治座がそばにあって、役者さんもたくさん住んでいました」という界隈。通学路で目にした明治座の看板に絵心が芽生えた。

「明治座の脇を通ると、大きな絵看板が路上で毛布の上に置かれていました。これから掲げられる前でしたが、子ども心に目を見張りましたね。国定忠治や弁慶と義経などにワクワクしました。

 その驚きを家に持ち帰って、雑貨問屋をやっていた家業の伝票の裏紙に描いて、おばあちゃんに『これやってるよ』って見せたことがきっかけ。『弁慶かい、(尾上)菊五郎かい』って感心しながら、たまごボーロ(お菓子)やおこし、金平糖をくれた。絵を描くとギャラ(=お礼)をもらえるんだって、初めてわかった瞬間でした」

 最初の成功体験。洋少年はお菓子をもらえる商いを、すぐさま周辺に拡大した。

「近所のおばさんのところに持っていくと『ひろちゃん、あんたが描いたんかい?』と感心しながら煎餅をくれました。それで気をよくして、どんどん描いて上達していった。

 明治座の看板の絵を覚えて、クレヨンで色づけする。見た人に、この役者だね、ってわかってもらえるという喜びも覚えましたね」

 仕事で稼ぐ才覚、人を喜ばせる快楽。2つの愉悦を成立させた背景には、洋少年の絵を見て記憶し、そして再現する能力があった。

 その才を裏づける証言として、弟子の林家彦いち(54)の師匠評が的を射ている。

「絵を再現することでわかるように、全体のスキャニングがうまいんです。どんな店かを説明する際も的確。師匠とはよく本の話をしますが、本の要約もうまいです。この本のポイントはこことここで、ここが面白いという話がどんぴしゃりで、私も自分の弟子に、全体を掌握する訓練をさせています」

 洋少年のスキャニング能力によって生み出された、近所の人を喜ばせる絵。大人になった豊田洋が、落語家の前に選んだ職業は漫画家だった。

4か月で会社を辞めて漫画家に転身

 高校卒業後、就職した森永乳業をわずか4か月で退社し、洋青年は、『かっぱ天国』で人気だった漫画家、清水崑先生の元に弟子入りした。約4年間の弟子生活を送るうちに、『漫画サンデー』に自らの作品が掲載され、漫画家デビューを果たした。

 そんな矢先に、清水先生からすすめられた落語家への転身。

「僕は漫画を描きながら、登場人物の会話をブツブツしゃべっていたんです。それを見た先生が、落語みたいだ、落語家にいい!とひらめき、桂三木助師匠(三代目。名作落語『芝浜』で人気だった)に紹介してくれたんです」

 清水先生の指針に従い、1960(昭和35)年、芸名・桂木久男が誕生したが、当時、三木助師匠は胃がんの手術をした直後だった。

「大げさに言うと看病に入ったみたいな弟子入りでした」と木久扇は振り返るが、一流へのこだわりを名人とおかみさんから学んだという。

「師匠はグルメで、みそ汁もおかみさん(三木助夫人)が鰹節をかいて、それと昆布でだしをとって作るという本格的なものでした。地方に仕事に行って宿に泊まる。そこのご飯がおいしいとお米を注文して送ってもらうんです。今みたいにどこでも何でも買える時代ではないですからねぇ。水へのこだわりも強く、物置には富士のお水が、当時はペットボトルではなく瓶に入ってたくさんありましたね」

 おかみさんがかく鰹節の音を聞き、匂いを嗅ぐたびに、木久男は、自分の中に子どものころの聴覚と嗅覚がよみがえるのを感じたという。

「朝、おふくろが鰹節をかく音で目覚めていました。今も鰹節や海苔が好きで、鰹節の削り箱がありますよ。ときどき、孫がやってくれたりします」

 音の記憶には、「早のみ込みでそそっかしい人でしたけどね」という母親の、三味線の音色まで刻まれていた。

「おふくろは、小唄のお師匠さんでした。うちの中には、歌舞音曲はまかりならぬという戦時中もずっと、三味線が壁にぶら下がっていました。戦後は、生徒さんを教えていましたけど、3000円の月謝をもらいながら、稽古が終わると1800円ぐらいの寿司を出前して食べさせちゃう人。人には好かれていましたけど、子ども心に、どういう計算しているのかなって思いましたね」

 自前の絵で謝礼をもらえることを知っていた洋少年には、摩訶不思議な母親の金銭感覚だった。

電話ボックスに名刺を張って営業を

 最初の師匠、名人三木助が入門後半年で亡くなると、八代目林家正蔵師匠(隠居名=林家彦六)の元へと移った。寄席で前座修業も始まり、芸名は「林家木久蔵」に決まる。後々、全国に名前をとどろかせることになる「林家木久蔵」としての人生は、26歳のときに始まった。

「正蔵師匠は、誠実な師匠でした。狭い長屋暮らしだったので、家の中の掃除はあっという間にできますし、小言はなかったです。ただ、寒い冬に外で、窓ガラスを拭くのはつらかったですけどね」

 そんなことはおくびにも出さず、木久蔵は窓ガラスを拭いていた。そんなある日のことだった。

「ガラッと玄関から師匠が出てきた。師匠の家の茶の間には昔ながらの火鉢があって、そこにかかっていた鉄瓶を持って出てきて、バケツにお湯を入れてくれたんです。そのころ、師匠は手も震えていたんですが、その手で重たい鉄瓶を持ってくれて……」

 木久扇の創作落語に『彦六伝』という噺がある。彦六師匠へのオマージュで、1982(昭和57)年に亡くなった彦六師匠を知らない現代の客前でやっても、いつも爆笑を呼ぶ噺。その秀逸さ、普遍性について語るのは、ユニオン映画株式会社の飯田達哉さん(72)。『笑点』のプロデューサーとして、40年以上の長きにわたり、木久扇を見つめてきた人物だ。

「彦六さんを知らない人が多くなっているのに、あの人が語ると、そういう人なんだなって思えるし、落語から彦六が飛び出してくる。人物伝としては秀逸ですよ」

 と手放しで絶賛する。

 テレビでバスケットボールを見ていた師匠が、震える声で「誰かおせえてやらねえか。網の底が抜けているのが知らねぇのか」と、バスケットボールを玉入れと勘違いするやりとり。「どうして餅にカビが生えるんだ」という疑問に「早く食わねぇからだ」と返す、ある種シュールなツッコミ。立川談志師匠の国政出馬を面白おかしくまとめた落語『明るい選挙』と双璧の噺で、木久扇のスキャニング力、観察力がいかんなく盛り込まれている。

 木久扇が彦六師匠から学んだことに、お礼の仕方がある。

「正蔵師匠はよくお礼状を書いていました。お中元の挨拶も、今みたいな配送ではなく、自分で持って行っていました。都電を乗り継いで、『瞼の母』などを書いた作家の長谷川伸さんや『佐々木小次郎』などを書いた村上元三さんのところへ盆暮れには必ず届けていましたね」

 木久扇は今、朝食が済むと毎日「10通ぐらい」のはがきを書くのが日課だ。自身のイラストを印刷したオリジナルはがきに、手書きで住所を書き、手書きでひと言添える。

「高座が面白かったと感想をくださる方や仕事でお世話になった方、楽屋に差し入れを持って来てくださった方、献本をいただいた著者に書きますね。絵も入っているので、字がいっぱい要らないんです。手書きだと、受け取った人が取っておいてくれる。普通は捨てちゃうでしょう。もう毎日書いているから得意なんです」

 とお礼状の真意を伝える。

スーツ姿でサングラスというダンディーないでたち

 前出・彦いちは入門後の数年間、師匠の旅(地方営業)にお供したが、そのころの印象的な姿を明かす。

 当時、木久蔵だった師匠は50代、スーツ姿でサングラスというダンディーないでたちで、手には、落語家とはちょっと不釣り合いなアタッシェケースをいつも持っていたという。

「そのアタッシェケースは師匠の机だったんです。電車や車での移動中、膝の上にアタッシェケースを置いて、礼状を書いていました。とにかくマメ。もらう方はうれしいでしょう、直筆ですから」

 木久扇は今も毎年、600通の年賀状を書くという。そこにももちろん、直筆のひと言を添える。背景にあるのは、

「落語家っていうのはひとり商売ですから、つながるのが商売なんです」

 という木久扇の思いだ。はがき1枚によって、お客さんとつながれる。

「前座のころ、誰が僕の落語が好きで、誰がご贔屓になってくれるのかわからない。ただ前座のころから人とつながって、人に覚えられないと出世しない、ということは感じていました」

 その思いから、知り合った方、お世話になった方に、礼状をしたためるようになった。

 公衆電話ボックスが街のあちこちにあった時代のこと。一時期、公衆電話ボックスのガラスに、風俗系のチラシが張りつけられていた。そこにも木久扇は目をつけた。

「引っ越したため使えなくなった名刺を、捨てるのももったいないので、新しい電話番号と『司会やります』というメッセージを書いて張りつけていました。仕事はほとんど来なかったですけど、周りからは『マメだね』って言われましたね」

 マメである前に、電話ボックスに名刺を張りつけてしまうというひらめき。他の芸人にはなかった発想。談志師匠に気に入られたのも、そんな発想から生まれた気遣いからだった。

「当時、談志さんは二ツ目で柳家小ゑん(以下、談志と表記)と名乗っていました。売れっ子でした。あれは夏でしたね。まだ寄席に冷房がなかった。談志さんが楽屋に飛び込んできて『こんな暑いときに一席やんのか、やんなっちゃうな、(高座を)降りたら風呂に行きてぇな』ってつぶやいたんです。

 それを耳にしたんで、談志さんが高座を降りて着替えているときに、『これお使いください』ってタオルと石けんを渡したんです。そうしたら談志さんが目をむいて『これ、おめぇのか』『はい』『おめぇ売れるぞ』って。すごくうれしかったですね。

 それ以来、談志さんがばかに気に入ってくれました。僕は着物を着せるのもうまかったので、談志さんがすぐに『木久蔵はどこにいる?』と。高座返し(高座の座布団を裏返しにしてきちんとそろえること)もうまかったので、談志さんの指名で僕がやっていました」

 今春の番組卒業まで貫かれた『笑点』における木久扇(当時の木久蔵)の方向性を示したのも、談志師匠だった。

「おめぇ、発想が面白れぇから与太郎でやってみな」

 そのとおりを、木久蔵は実践した。俳優が役作りをするような、そんな感じで。

息子が明かす父親としての木久扇

 1969(昭和44)年、32歳のときに木久蔵は『笑点』のレギュラーメンバーとなった。二ツ目になって4年目の抜擢。今は長寿番組として堂々たる風格の『笑点』だが、「番組自体が、こんなに長く続くとは思わなかった」と当時の心境を木久扇は吐露する。

「今のように、新メンバーが入ったことが騒がれることもなかった。メンバーもしょっちゅう入れ替わっていましたからね」

 32歳木久蔵が感じた思いに反して、86歳木久扇まで55年間、座布団に座り続けた。

『笑点』で忙しかった時分の木久蔵の姿を、息子で弟子の二代目林家木久蔵(48)は、幼稚園時代の記憶として振り返る。

「常に父がいない。朝起きると隣に寝ているけど、あんまりしゃべったことがない」という感覚からある日、母親に「あのおじさん来ているね」と素直に伝えたことがあるという。交通の便が今ほどよくなく、地方営業はほぼ泊まり。父の不在は、月の半分以上に及ぶことがあった。

「これはまずい!と思った母が、『笑点』を僕に見せて、『お父さん出ているわよ』と説明してくれました。奇妙な気分でしたね」

 多忙な一方、一緒にいるときは打って変わって、

「ものすごく構ってくれましたね。人を喜ばせるのが元来好きな人ですから、昆虫好きな僕のために、地方の仕事先からカブトムシをいっぱい持って帰ってきてくれたり、外食にも連れて行ってくれたり、本屋さんではたくさん本を買ってくれましたし、スーツとサングラス姿で授業参観にも来てくれました」

 と父子関係を構築することにも、父は奮闘した。

 その一方。学校では、いじられ続けるという体験をした。

「小学校高学年になると、いじられましたね。低学年のころは、運動神経がよかったのでクラスの中心ぐらいにいましたが、ある日、父が『こんなこと言ってたな』とか『バカなこと言って』とからかわれました。月曜日に学校に行くのがつらかった。みんな僕の耳元で『笑点』のテーマ曲を歌ったり、『来たぞ笑点が』って言われましたからね」

 今では、笑い話として打ち明けることができるのは、木久蔵が父に寄せる全幅の信頼感からだ。

 父の教育方針が「全面肯定でした。世間はなまやさしいものじゃない、という注意は一切ありませんでした」と明かしつつも「でも、父の言い分と現実が違ったときのショックは大きかったですけどね」

家庭を切り盛りしていた母

 不在がちな父に代わり、実際に家庭を切り盛りしていたのは母だった。

「母は子どもを、普通の家の子として育てたかったので、テレビ局から子どもも一緒にという出演依頼があっても一切断っていました。夜ごはんは7時きっかり。1分でも遅刻したら食べさせない。そんな感じでしたね」

 と母の厳しいしつけを語りつつも、両親については、

「昭和の夫婦像を見せてもらったなと思います。亭主が第一で、食事にしても最初に手をつけるのはお父さん。一番風呂もお父さん。僕が幼稚園のころからお弟子さんがいて、みんな『はい、師匠』という感じで反論も一切できない。辞めていく弟子もいて、厳しい人なんだな、『笑点』のあれだけの人じゃないんだな、って思いましたね」

 父に対する母の言い分は絶対、と木久蔵は続ける。

「今日に至るまで元気で出演できたのは、内助の功の母のおかげであることが大きいですね。病気のとき、異変を真っ先に感じ病院に行くことをすすめたのは母でした。『笑点』も、健康なまま元気なうちに卒業してほしいのよ、と言っていましたしね」

 実は「2、3年前から考えていました」と、木久扇は卒業時期について証言する。前出・飯田さんも「『24時間テレビ』で卒業を発表する1年ぐらい前から、あれ、引き際を考えているのかなぁという気がしていました」と、今だからと振り返る。

 木久扇の最終決断の背中を押したのは、やはりおかみさんだった。

「お父さん、もういいんじゃないの」

「そうだね」

 実に江戸前のさっぱりしたやりとりで、木久扇は腹を固めた。そのことを『笑点』スタッフに「こないだ、“もういいんじゃないの”と、かみさんに言われて、僕もいいよって答えたんだよ」とネタ的に話したところ、それが上へ上へと伝わり、卒業時期の模索から確定へとつながっていったという。

「卒業するにあたって心がけたのは、湿っぽい別れにならないようにすること。みなさんお世話になりました、というのは嫌だった。(桂)歌丸さんも(三遊亭)円楽さんも具合が悪くなって、大変でしたけど、僕は最後まで笑わせて身を引きたかった」

 そういう思いどおりに振り切った木久扇で、卒業までの半年を過ごした。

 飯田さんは「寂しい様子はなかったですね、普通だった。辞めると発表して肩の荷が下りたのか、面白さに余計に拍車がかかったんじゃないですかね」と卒業に至るまでの一皮むけた感を指摘し「病気でフェードアウトするより、自分で辞めたほうがスッキリすると言っていましたから」と理想的な引き際をたたえる。最終収録後は現場で出演者とスタッフ一同で乾杯をしたが、涙はなかったという。

 前出・彦いちは「僕にとっては『笑点』をやっているかどうかは関係ない。落語家はみんな、仕事をやっては辞めての繰り返し。僕の中では、ハードスペックを持ち、V8エンジンを積んだマッドマックスみたいなおじさんに入門したのであって、あのころと師匠は変わらない、今も面白おじさんのままです」と明かし「むしろ病気になったときのほうが大きな出来事だった」と振り返る。

 木久扇は53歳のときに胃がん、77歳のときに喉頭がんに罹患した、がんサバイバーだ。

「あのときは落語家廃業も考えた」と打ち明ける喉頭がんの治療だったが、「前向きでしたよ、落ち込んだらダメだってわかっているから常に前向き」(前出・飯田さん)と周囲に必要以上に気遣いをさせなかった。

「僕が二ツ目のときに、父が胃がんになって、親の死を初めて意識した」という木久蔵は、「親が元気なうちに真打になること、孫の顔を見せてあげたかった、それが叶ったので、あとの人生はご褒美みたいなもの」と明るい。「年を取ると、話術もままならない、仕事も減る、落語が怖くなるというたくさんの芸人の苦労を見てきたので、うちの父は楽しそうにやっているので、このまま楽しい余生を過ごしてもらえれば」

 おかみさんに「お父さん、視野の中にいてちょうだいよ」と言われるほど、木久扇の行動は衰え知らずだ。

『笑点』を卒業しての暮らしぶり

 “アフター笑点”の時代を歩き始めた木久扇は、

「すごくホッとしましたね」と番組収録から解き放たれた現在の心境を漏らす。

「55年間、学校に行って、毎回試験を受けているようなものでした。最初のころはテレビに出られてうれしかった。そのうち、おバカキャラが確立して面白いことを言う人ってなって、そんなに毎回面白いことって浮かばない」

 毎週必ず、放送を真剣にモニターしていたという番組の見方も、最近では少しいいかげんになったという。

「30分ぐらい前になると日テレに合わせるんだけど、この前なんか寝ちゃった。気づいたら3問目でした。以前ならこう答えればよかったとか、登場時の顔が怖いからニコニコしようとか、いろいろチェックしていたんですけどね」

 毎朝7時半には目覚め、ラジオ体操をしてから、2年前に骨折した大腿骨まわりの筋肉量を増やすために加圧ベルトを締めての足の上げ下げ、さらには室内を歩き回り、高校時代から続けている剣道の素振りを60本。お尻から足首まで半円を描くように振り上げては下ろす。

 睡眠時間はたっぷりと8時間前後を確保する。朝食の食卓には、納豆やひじきの煮物、佃煮が並び、子どものころに、その匂いで目覚めたという鰹節の匂いが今も食卓で、木久扇を覚醒させる。

「下町育ちなので和食系。洋食は遠くの食べ物という感じで、ナイフとフォークを持っているのは、よそよそしい感じですね」

 食べる量は減りましたね、という食事だが、仕事への意欲はまったく衰えない。

「僕は落語界の呼び込み役だと思っているんですよ。お客さんも入るし、落語人口を増やそうと思って、息子との木久扇木久蔵ダブル襲名を仕掛けて、全国で81公演をやりました。

 人を笑わせるのが好きで、僕の場合は爆笑落語でお客さんをつかむ。おしゃれで渋い木のイスより、はずんで楽なほうがいい。この世界にいる限り『座り心地のいいスプリングのイス』になりたいんです」

 来年春に、最後の弟子の林家けい木が真打に昇進することが先ごろ、発表された。

 息子の木久蔵のせがれ、孫の豊田寿太郎くん(16歳・高校2年)が4月に著書『コタ、お前は落語家になりたいの?』(今人舎)を出版した。

 木久扇は孫の活躍にまなじりを下げるが、落語家になることについては「リスクの多い商売だからね。僕からすすめると責任もあるし、本人になりたいと気持ちが芽生えたら、だね」

 と、見守る姿勢。2年後、コタくんが高校を卒業するころに進路を落語界に決め入門すれば、林家木久扇(そのころ88歳)、林家木久蔵(そのころ51歳)、林家寿太郎(仮名、そのころ18歳)の親子三代の現役落語家が出現する。

「画期的ですね」と水を向けると、にっこりし、こう答えた。

「寿命が授かっていればですけどね」

<取材・文/渡邉寧久>

わたなべ・ねいきゅう 演芸評論家・エンタメライター。『夕刊フジ』、『東京新聞』などにコラム連載中。文化庁芸術選奨、『浅草芸能大賞』選考委員、花形演芸大賞審査員等歴任。『江戸まちたいとう芸楽祭』実行委員長。

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