<再発見!伊豆学講座>来宮神社 相模湾沿い キノミヤ集中
熱海市西山町の来宮神社
明治に国家神道政策が打ち出され、その一環として一村一社となり、地域に点在していた神社の多くは氏神といわれる1カ所に合祀(ごうし)された。そうした中でも、地域によって神社の特色がうかがえる。相模湾に沿った神奈川県西部から静岡県の伊豆半島東海岸にかけて、キノミヤという名をもつ神社が集中している。
このキノミヤとは果たしてどのような神だったのであろうか。文字は木宮、来宮、季宮、奇宮、黄宮などと当てられているが、第一に樹霊信仰説を挙げることができる。熱海市西山町の来宮神社のように大楠(おおくす)を持っている場合、まず考えられることである。
この来宮神社は「田方郡誌」では「阿豆佐和気神社として、村社、和銅2(709)年6月勧請、祭神大己貴命(オオナムチノミコト)・五十猛命(イタケルノミコト)・日本武尊(ヤマトタケルノミコト)」としている。社伝によると、和銅3年、漁夫の網にかかった神像を霊夢によってクスの大樹の下に祀(まつ)ったのに始まるという。例年7月15、16の両日、全市を挙げての祭りが行われる。禁酒の祈願を込めれば霊験があると伝えられる。
文政7(1824)年、「甲申旅日記」に「ここは伊豆の高根の西のふもとにて、地主白道明神を祭る。昔故ありて、伊豆権現高麗の国に到り給(たま)ひけるを、この神再ひ誘ひ帰り来給ひしによって、世の人かく唱ふとなり。この山に大なる楠(くすのき)あり。めぐり十一抱へ半あり。幹はうつろに成りてほらのごとく、三十六人居並ぶと言ふ。この外にも七八抱への楠ありと聞けり」とある。
「田方郡誌」に「和銅年中五十猛命七個の樟(くすのき)の種子を蒔かれしものゝ一にして其後太閤及徳川幕府の命により造船のため伐採せられ今は其二本を残せり」とある。大楠は昭和8(1933)年2月、国の天然記念物に指定された。通称「成就の楠」ともいわれ、願い事を一つだけ秘めて幹の周りを回ると、叶(かな)うと伝えられている。毎年7月15、16の両日の祭りの中で披露される鹿島踊りは静岡県無形民俗文化財に指定されている。
次に紀氏(紀野氏も)との関係もあると考えられている。紀氏の祖神説である。紀は木(樹)だとも言い、紀州は「木の国」である。木地師の祖は惟喬(これたか)親王とされるが、小田原市早川の紀伊神社には惟喬親王の画像や木地椀(わん)が伝えられている。
「忌の宮」の意であろうともいわれる。伊豆の島々における特異な伝承であるヒイミさまやカンナン法師、二十五日様との関係を考慮すると忌の宮説も一理ある。キノミヤには不思議と「酒」にまつわる話が多く付随していて熱海の来宮神社でも禁酒の祈願を込めれば霊験があるとされ、酒もまた「キ」である。酒を断つために河津町の来宮神社に参るという禁酒の神である。この神様もまた、酒に酔って危うく野火に焼かれそうなところを小鳥の群れに助けられ、以来「鳥精進、酒精進」と言って、鳥を殺したり酒を飲むのを断ったりするようになったという。
伊東市八幡野の祭神(八幡宮来宮神社)も沖を通る船から酒をねだったと言われ、「キ」は「来」で海上から来る漂着神の意だろうともされる。八幡宮来宮神社では「増訂豆州志稿」によると、来ノ宮は往古、海浜の岩窟に祭るとある。中伊豆地域にも来宮神社が多く、「増訂豆州志稿」によると伊東市鎌田の火牟須比(ほむすび)神社は原保の来宮神社を移転したものという。伊豆には現在9社のキノミヤ神社がある。(橋本敬之=伊豆学研究会理事長)
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