田原総一朗がひたすら泣いた「日本のいちばん長い日」を振り返る
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90歳のジャーナリスト、田原総一朗。彼がこの道を選んだ理由の一つに、敗戦体験を経て形成された価値観があるという。田原が経験した戦争とは。本稿は、田原総一朗『全身ジャーナリスト』(集英社)の一部を抜粋・編集したものです。
天皇陛下のために死ぬことを
疑わなかった軍国少年時代
僕はなぜジャーナリストの道を選んだのか。一つは、僕の疑り深い性格が、そのままこの職業に向かったということがあると思う。世の中の主流になっている言説をまずは疑う。そして納得できない限り「なぜ」を突きつけてきた。それはもともと僕にあった、物事の因果や背景を知ることへの強い関心のなせるわざだが、それだけではない。あの戦争の末期に育ち、敗戦を体験した僕たちの世代ならではの価値観があったと思う。
天皇陛下のために死ぬことを疑っていなかった。
1945年8月15日。小学校5年(※編集部注/当時は、国民学校初等科と呼んだ。修業年限は6歳からの6年間)の夏休みに天皇の玉音放送を聞いた。戦争に負けた日だった。それまでの僕は典型的な軍国少年だった。
周辺の環境がそうさせたのだ。僕が生まれたのは1934年4月15日、日本が満州事変(1931年)を起こし15年戦争にのめり込んでいく時期が、ちょうど僕らが次第に物心ついていく幼少期とぴったり重なっている。少年期戦中派とでもいうのか、兵隊に取られる年齢ではない。戦後の、戦争を知らない世代でもない。ちょうどその間に挟まり、純粋でナイーブな子どもの頃から、戦争というもののリアルに首まで漬からざるを得なかった特殊な世代だった。
太平洋戦争が始まったのが小学校1年だ。
当時の担任は、授業で太平洋の地図を黒板に描いては、日本軍の侵攻状況を僕らに教えた。
フィリピンやボルネオなど、白墨で描き込んだ島々が次々に赤丸で囲まれていく。赤丸は日本軍の占領の印だった。地図が赤く染まっていくのが小気味よかった。ずいぶん景気がいいなと思った。
夜は両親とラジオを囲んでNHKで放送される大本営発表を聞くのが日課だった。こちらも、敵戦艦を撃沈といった威勢のいい話ばかりだった。いま思えば、嘘の発表が繰り返される毎日だったのだろう。小学校2年からは絵日記を書き始めた。10代の子どもたちが、義勇軍として教師たちに付き添われて満州や内蒙古の未開拓地を開発するために大陸に渡ったという話を書いたのを覚えている。
従兄弟の影響で
海軍士官になると決意
小学校4年からは学校での軍事教練が始まった。隊列を作ったり、木の銃を持って行進させられたりした。小学校5年ともなると、社会科の授業でこの戦争の目的などについても教わるようになった。米英を中心とした列強各国が、アジアを植民地化するのに対抗した正義の戦争だ、と。だから君らも早く大人になって、戦争に参加して、天皇陛下のために名誉の戦死を遂げよ、そう言われた。
僕は、天皇陛下のために軍隊に入り、天皇陛下のために出征し、天皇陛下のために死ぬということに、まったく疑いを持っていなかった。学校で各種式典を開催する時には、必ず昭和天皇の御真影が講堂の奥に飾られた。いまの北朝鮮の金(日成、正日、正恩)ファミリーではないが、まさに画に描いたような神格化だった。「陛下のお顔を直接見てはいけない。額の下の縁までだ。直接見たら目が潰れる」とも教育されていた。
先輩たちは高等小学校(※編集部注/1941年以前の呼称。以降は、国民学校高等科と呼んだ。修業年限は12歳からの2年間)を出ると、予科練(※編集部注/海軍飛行予科練習生)に入ったり、中学校(※編集部注/旧制中学の修業年限は12歳からの5年間。のちに4年に短縮)を卒業して海軍兵学校(海兵)や陸軍士官学校に進学したりしていた。僕は、海兵入りが決まっていた従兄弟に憧れ、海兵に行こうと思っていた。海軍兵学校というのはエリートで、なぜ海軍かというと、陸軍は行軍がある。歩かなきゃいけない。海軍は甲板の上だから歩かなくていい。それで海軍を選んだ。僕は子どもの頃から、こすっからいところがあったのかもしれない。
よくわからなかった
「玉音放送」の内容
戦争末期、燃料不足になって、クラス全員で列を作って山に松脂を採りにいったのも忘れられない。松の幹に傷を付けて竹のコップを置いておくと自然に松脂がたまる。それを回収し、航空用ガソリンの代替物として利用しようとした。総力戦とはよく言ったものだ。
その時歌ったのが、「勝ちぬく僕等少国民」(作詞・上村数馬、作曲・橋本国彦)という歌だった。少国民とは、日中戦争から第二次世界大戦までの日本において、銃後に位置する子どもを指す言葉だった。年少の皇国民という意味だ。
こんな歌だった。いまでも僕の口をついて出る。
天皇陛下の御為に死ね(中略)
敵を百千斬り斃す(中略)
一発必中体当り(中略)
敵の本土の空高く
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しかし、現実の戦況は厳しくなる一方だった。
僕の故郷・彦根にも空襲があった。近所に爆弾が2発落とされた。機銃掃射もあった。死者や負傷者が出て、僕の実家の前を運ばれていったのも覚えている。
肉親にも戦死者が出た。従兄弟2人が亡くなった。年上の方はフィリピンのルソン島で戦死、僕が憧れていた年下の方は、海兵を出た後に海軍に入り、東北沖合で乗っていた船が機雷に抵触し亡くなった。
こんな生活が一体いつまで続くのだろうと思っているうちに、8月15日がやってきた。
学校は夏休み中だ。昼前から近所の大人たちが僕の家に集まってきた。昭和天皇のお言葉があるというので、うちのラジオで聞こうということだった。
僕も一緒になって聞いた。聞きはしたが、正直言って、ノイズが多くて、よくわからない。言葉も難しい。とにかく、「堪えがたきを堪え、忍びがたきを忍び」とか、「敵は新たに残虐なる爆弾を使用し」とか、このあたりはわかるんだけど、全体で何を言いたいんだかはわからなかった。
大人たちも同様だった。その解釈をめぐって議論を始めた。「堪えがたきを堪え」だから、本土決戦まで続けるんじゃないかと言う人もいたし、いや、わざわざ天皇が肉声で国民に伝えたということは戦争が終わるのではないかと解説する人もいて、意見がわかれた。勝ち派、負け派だ。
そうこうしているうちに彦根市役所の職員がメガホンを持って巡回、論争に決着をつけてくれた。
「戦争が終わりました」
こうはっきりと言った。負けたではなく、終わりました、と。つまり終戦というわけだ。
窓から見えた風景
「もう死ななくていいんだ」
終わったと聞き、僕の頭に最初に去来したのが、「これで海兵に行けなくなった」だった。
少年の頃の最大の目標が、音を立てて崩れ去った。お先真っ暗、僕は絶望的になった。とにかく下の従兄弟と同じように、海軍兵学校に入って、天皇陛下のために戦争に参加することが人生の唯一の正しい目標だったから。
僕は1人になりたかった。祖母が暮らしていた離れの2階に行って、ただ、ひたすら泣いた。
そして、いつの間にか寝ちゃった。泣き寝入りというやつだ。
目が覚めたら世の中は夜になっていた。離れから母屋に戻って2階の窓から外を見て、びっくりした。前日の夜までは空襲対応の灯火管制で街が真っ暗だったのが、やたらと明るい。戦争が終わったから、街に電灯が煌々とついている。
不思議なことだが、僕のなかにこれまでと違う感情が生まれた。
「もう死ななくていいんだ」
「海兵に行けなくなった」に、それが取って替わった。明るい街がこんなに美しいものだったことも改めて知らされた。絶望的になって寝たが、目が覚めてみたら明るい別の日本に変わっていた。とにかく解放された気になった。
これが僕にとっての「日本のいちばん長い日」だった。
そして2学期になり、また学校が始まった。そこで僕は大人たち、特に教師たちに最初の不信感を抱くことになった。終戦前と後で、言うことが180度ガラッと変わったからだ。
『全身ジャーナリスト』 (集英社新書) 田原総一朗 著
教師たちはこう言い始めたのだ。
「実はあの戦争は日本の侵略戦争だった。やってはいけない間違った悪の戦争だった」
「正しいのは英米であり、日本の指導者たちは皆間違えた」
1学期までは国民の英雄として、新聞もラジオも褒めたたえていた人間が、2学期になって急に逮捕された。東條英機らA級戦犯だ。教師も周辺の大人たちも、躊躇なく彼らは逮捕されて当然であると言い立てた。
「君らは今後戦争が起きそうになったら、体を張って阻止しなさい」とまで言った。「10月になると占領軍がやってくる。占領体制になったらおとなしくした方がいい。間違っても抵抗しないように」とも諭された。