箱根駅伝出場の元監督が異例の「選手」復帰…上野裕一郎38歳が佐賀で目指す「恩返し」「瀬古(利彦)さんと両角(速)先生が心配してくださって…」
選手専念の形では5年ぶりに競技復帰を果たした上野裕一郎。所属のひらまつ病院(佐賀県小城市)での競技生活について話を聞いた
昨年10月、女子部員との不適切な行動が発覚し、立教大監督を解任された上野裕一郎。同校を55年ぶりの箱根駅伝出場に導いた指導者は、今年1月、佐賀県の実業団「ひらまつ病院」の選手として陸上の舞台に戻ってきた。自身の行いによって多くの批判も集めた38歳、上野が走り続ける理由とは――。(Number Webインタビュー全3回の第3回/初回「解任の真相」編はこちら)
「週刊誌に撮られたら…」集中できなかった日々
今年の1月15日、ひらまつ病院が上野裕一郎の陸上部への加入を発表した。
上野は、チームに合流する前から中島泰伸監督と話をしており、復帰レースを2月11日の「唐津10マイル」に決めた。
「復帰の1戦目は、佐賀県内のレースということで唐津に決めました。監督に『練習どのくらい出来ているのか』と聞かれたんです。ここに来るまで都内でも走ってはいたんですけど、10000mのペース走を3分30秒で出来なかったし、ロングジョグもキツくて。しかも、そこで週刊誌に撮られて反省もせずに走っているとか言われるのも嫌だなって思って、周囲が気になってなかなか集中できなかったんです。でも、決めたからには恥ずかしい結果は出せないと思い、(チームの拠点の)小城(おぎ)に入ってレースまでの1カ月はかなり集中して練習しました。1キロ3分は切れないと思っていたので、3分5秒ぐらいを目標にしていました」
唐津10マイルは、48分17秒で8位となり、1キロ3分1秒で走り、目標をほぼクリアした。現役復帰初戦で上野は、上々のスタートを切った。
佐賀からの再起
このレース後、上野は立教大駅伝部監督を解任されてから初めてメディアの前で口を開いた。平石拓也コーチが傍につくなか、改めて部員や大学関係者らに謝罪を口にして囲み取材を終えた。2018年以来の本格的なプレイヤー復帰に向けて、ひとつ山を越え、大きな1歩を踏み出した瞬間だった。
上野は今、佐賀県小城市内のアパートに住み、朝練から若い選手と一緒に走っている。ポイント練習は、火曜日と金曜日、それ以外は各自テーマに沿った練習や筋トレ、ジョグに当てている。上野は、練習では若い選手用の練習メニューを考え、実践している。ちょうど立教大の選手と同じぐらいのレベルの選手がおり、5000m13分台、10000m28分台を目標にする中、「上野さんなら今の子たちをそのレベルに押し上げてくれそうだからお願いしてもいいですか」と頼まれ、承諾した。
「僕は、あくまでも選手ですけど、そういう形でもチームに関わることができて、すごくうれしいです。今は僕が考えたメニューを監督に説明し、それをスタッフ全員で共有して練習に取り組むようになっています。まだ、力のない子がいるので、『そういう子たちを頼んだぞ』と理事長に言われていますし、こんな状況で採っていただいて、大きな役割まで与えてくださったので、少しでも恩返しをしたいんです」
半年ほどで「九州の日本人トップ」に
練習の成果か、上野の体は見る限り、だいぶ絞られている感がある。2018年12月に監督に就任してからは、筋トレなど一度もしなかったが、現役復帰の際、筋力をつけるために筋トレを始めた。体幹の強さも戻ってきて、体重も66.5キロから63キロまで落ちた。監督時代に走っていたタイムで今は楽に走れるようになった。
「2月に個人合宿をやって、感覚的に良くなったと思えたのは、3月中旬です。走りのベースとなる部分、クロカンや距離走、ロングジョグを休みながら継続していくことでベースが上がってきて、ポイント練習でもスピードに乗るようになったんです。ここまで上げて来られたのはひらまつ病院のために走力を戻して結果を出す、日本選手権に出るというモチベーションがあったからで、そういう目標がないとダメだなって改めて思いました」
4月、兵庫リレーカーニバルの10000mでは最初、2分52秒のペースで走り、2分40秒まで上げた。このままのペースでいけば28分35秒切りも可能だったが、後半に力んでしまい、それでも28分42秒38で日本人2位となった。5月19日、九州実業団陸上選手権の男子5000mでは13分54秒77で日本人トップの2位に入った。
「このレースは勝つつもりとか、日本人トップとかぜんぜん考えていなかったんです。チームの選手たちを引っ張って、そこから先頭が見えたら追おうかなと思ったんですが、けっこう暑くて風も強く、みんな崩れてきたんです。僕は楽だったので前に行ったんですが、ケニア人選手に届かなくて。トレーニングの一環として出場したのですが、思いがけず順位もついてきてよかったと思いました」
選手時代と違う一面
このレースを練習の一環と言えるところに、以前とは異なる上野が見えた。
「僕は、38歳、もうすぐ39歳になります。2007年に13分21秒49の自己ベストを出した時のようにレースに何本も出て、バンバン記録を出せる状態じゃない。1本1本をすごく大切にしています。そのために、このレースは練習、このレースは勝負というのを明確に分けています。目的意識を持ってレースをすることの重要さは、立教大で指導している時に身についたものです。強化と勝負を分けて考えろと学生に言っていたのに、自分ができないとダメだろと思い、そういうマインドになりました」
今年の日本選手権の出場は不可能になったが、来年には東京世界陸上がある。かつてのように世界の舞台に挑戦するのかと思いきや、上野は「そういうビジョンはないです」と笑った。
背中を見せられるおじさんになりたい
「今は、20代の若い選手たちに少しでも背中を見せられるおじさんになりたいです。実際は、遅いんで背中は見せられないかもしれないですけど、39歳でもこれだけやれるよ、39歳がうしろから来ているよっていうのを見せたい。もちろん、年齢を言い訳できないアスリートに戻ったので、レースの際は勝負します。世界では僕よりも1歳上のキプチョゲがパリ五輪のマラソンで五輪3連覇狙っていますからね。マジですごいと思いますし、だから言い訳なんかできないですよ」
ふたたび、陸上の世界に戻り、走る喜び、若手と一緒に練習する楽しさを感じることができて、上野の表情は活き活きしている。
解任、バッシング…上野を支えたものは?
ここに至るまで、上野を支えたのはいったい何だったのか。
「うーん、思ったのは絶対に死んじゃダメだということ。自分がやったことで苦しんでいる人、自分よりも苦しんでいる人がいる。そういう人たちがいる以上、自分が死んだり、逃げたりしたらダメだ。自分の過ちによって自分が一番ラクになろうとしたら絶対にいけない。それが自分の心の軸になっていました」
おまえはここで身を引くような存在ではない
もうひとつの上野の支えになったのは陸上界の声やサポートだった。佐久長聖高校時代から活躍し、2009年の日本選手権で1500mと5000mで2冠を達成、結果とともにその走りで強烈な印象を残した。また、立教大で55年ぶりの箱根駅伝出場を実現するなど優れた指導者になるべく、その階段を上がろうとしていた。不適切な行動があったとはいえ、陸上の関係者から「おまえはここで身を引くような存在ではない」と言われ、上野は陸上に前向きになることができた。
「本当に多くの方から応援するよっていう声をいただいて、こんな自分にもったいない、ありがたいと思いました。特に瀬古(利彦)さんと両角先生(速・東海大監督)は本当に心配してくださって、いろいろ相談に乗っていただきました。あの時、いろいろ声をかけてくださってみなさんに、レースや大会の現場でお会いした時、しっかり謝罪と感謝を直接伝えていきたいなと思っています」
正直、いつまで体が動くのか分からない
今シーズンは、5000mで13分30秒切り、10000mでは27分50秒を目指していく。マラソンにもチャレンジしたいが、今はトラックがいい流れできているので、悩み中だ。駅伝では、九州実業団駅伝を経てニューイヤー駅伝に出場し、15位以内を目標にしている。
「今は、もう勢いでやっている感じです。正直、いつまで体が動くのか分からないので、動けるうちに目標を達成していきたいですね。ひらまつ病院から別の実業団に移籍して走ることはもうないので、理事長や部長、監督に『上野くん、お疲れさま』と言われるところまで頑張っていきます。とりあえず今は、『上野、速いな』って思われるところまで戻して行きたいです」
「速い」は、陸上選手の最高の褒め言葉だ。そこを目指す覚悟が出来ているからか、それともこの町の環境がそうさせているのか、今後の目標について語る上野はまっすぐ前を見つめ充実した表情を見せている。人の視線に怯えることなく、修行僧のように陸上に集中した日々を送っているのだろうと容易に想像がつく。都会から離れた九州の静かで小さな町は、上野にとって最高の再出発の場になったようだ。
上野が毎日、心に刻んでいる言葉
「今は、この言葉を大事にして、毎日練習に取り組み、1日1日を過ごしています」
“朝、希望をもって目覚めて、昼は懸命に働き、夜は感謝と共に眠る”
上野は、この言葉を心に刻み、贖罪の旅をつづけていく。
<「騒動の真相」編からあわせてお読みください>
上野裕一郎(うえの・ゆういちろう)
1985年7月29日、長野県生まれ。佐久長聖、中央大を経て、エスビー食品に入社。その後、DeNAに所属。2018年11月に退部し、12月から立教大学陸上競技部男子駅伝チームの監督に就任。就任4年目にチームを2023年の箱根駅伝出場に導く。2023年10月、監督を解任され、2024年1月からひらまつ病院に選手として復帰