電車のガラスを壊し、運転士に殴りかかる…「通勤地獄」に苦しむ「日本のサラリーマン」が起こした暴動の「衝撃的な様相」
座席で足を広げる、携帯電話で通話する、優先席を譲らない、満員電車でリュックを前に抱えない……など、その「ふるまい」が人の目につきやすく、ときにウェブ上で論争化することも多い、電車でのマナー違反。
現代人は、なぜこんなにも電車内でのふるまいが気になり、イライラしたり、イライラされたりしてしまうのか?
そんな疑問を出発点に鉄道導入以来の日本の車内マナーの歴史をたどり、鉄道大国・日本の社会を分析した『電車で怒られた! 「社会の縮図」としての鉄道マナー史』(6月19日発売・光文社新書)を、日本女子大学教授・田中大介さんが上梓する。
現代人のマナー意識を形作る、「気遣いの網の目」を解きほぐしつつ、丹念に鉄道マナーの歴史を追う本作から、エポックメイキングな出来事などを分析した一部を紹介する。
※本記事は田中大介著『電車で怒られた! 「社会の縮図」としての鉄道マナー史』から抜粋・編集したものです。
高度成長期の「通勤地獄」
高度成長期における満員電車は、都市構造や交通体系の矛盾や軋轢から発生する複合的な問題であり、国家的課題となっていた。「通勤地獄」ということばそのものが、そのことを表現しているともいえる。
たとえば、戦後すぐの混乱期の鉄道は多くの事故を起こし、混雑による圧死も発生したため「殺人電車」と表現された。高度成長期になり猛烈な通勤ラッシュがはじまると、今度は「通勤地獄」という表現が多用される。さらに高度成長期が終わると、今度は「痛勤(電車)」といういいかたが増えている。満員電車がきついことに変わりはないが、表現が控えめになっていることからも、すこしずつ混雑率が改善していったことがうかがえる。
「殺人電車」ということばは、加害―被害の関係と原因の帰責を含む事件性・出来事性を含意しており、鉄道事業者の責任を追及するためのキーワードになった。100人以上の死者を出した1951年の桜木町事故が有名だが、相次ぐ事故の原因のひとつは、戦後すぐに間に合わせで用いていた貧弱な車両や施設を使い続けていたこととされた。
一方、「通勤地獄」は、より広い範囲で長く継続する過酷な状況・環境を指している。高度成長期の通勤ラッシュは複合的な都市問題であり、特定の責任主体に還元されない国家レベルでとりくむべき集合的課題であった。「通勤地獄」ということばは、そうした理解に適合的なことばといえるだろう。しかし「痛勤」になると、個人が経験する感覚・行為に照準したダジャレになっている。満員電車の問題と対応は続いているものの、どちらかといえば――なんとか我慢できそうな――個別的対応を想起させる。
いずれにしても「通勤地獄」は、毎朝、40万人ともいわれる大量の人びとが経験し、くりかえしセンセーショナルに報道され、国会の審議事項にもなった都市問題であった。
都市社会学者のM・カステル(『都市問題』山田操訳、恒星社厚生閣、1984年、原著は1972年)は、当時、資本主義における都市問題の発生や都市の社会運動の成立の仕組みを以下のようにとらえている。
PHOTO by iStock
まず、資本主義体制の都市を、利潤拡大のために生産(P)・消費(C)・交換(E)・管理(G)・象徴(S)という各要素が関係するシステムとしてとらえた。
すなわち、産業化による賃金労働者の増大(Production生産の領域)、労働者とその家族が生活する場所の郊外化(Consumption消費の領域)、そのあいだの身体・物財・情報の流動の高速化(Exchange交換の領域)、それらを規制・運営する行政・政治の問題(Government管理の領域)、およびこれら複雑に連関する都市に対する人びとの認識・イデオロギー(Symbol象徴の領域)である。
都市というシステムは、これらが重層的に作用しあう場であるとする。都市を生きる人びとの側からみれば、賃金労働を続けるには、多様な商品を購入し、各種インフラをみんなで利用して生活する必要がある。カステルはこれを「集合的消費」としての都市と位置付けた。
生じた矛盾や軋轢をどう解決するか
しかし、資本主義が利潤を蓄積・拡大を追求するなかでP・C・E・Gのあいだに矛盾や軋轢が現れる。そうした矛盾や軋轢が現れる都市生活において、とりわけ困難と感じられること(S)が認識・経験されるなかで、都市問題が共有される。ただし国家・自治体は、そうした問題を画一的・一元的に管理・支配しようとする。そうした管理・支配に対抗しつつ、問題の解決・改善を志向するときに現れるのが都市の「社会運動」である。
このように考えると、通勤ラッシュの問題はさまざまな都市の要素の重なりのあいだの矛盾や軋轢として現れていることがわかる。
Photo by gettyimages
つまり都市への急激な人口流入によって、郊外の巨大団地の造成(C)と都心の工場・会社の集中(P)が起こり、そのあいだをつなぐ通勤電車の時間と空間の拡大するものの、ボトルネックとなり「満員電車」が発生する(E)。国家・自治体の都市計画は後手に回っており、「時差通勤」によって当座を凌ごうとするものの、うまくいかない(G)。こうしたなか、「通勤地獄」が都市生活者に共通のシンボリックな都市問題として認識される(S)。
M・カステルの議論は、当時の資本主義諸国の多くに共通するものとして提示され、さまざまな都市問題がとりあげられている。日本社会にとってはとりわけ公共交通に集約される「通勤地獄」が大きかったといえるかもしれない。
「都市問題」を改善する社会運動は、都市生活者がこうした矛盾・軋轢をどのように認識し、位置付け、政治的なプロセスに乗せるかによって左右される。鉄道に関係する交通問題は、まず鉄道の労働組合による労働運動というかたちで現れた。
とくに「国労」とよばれる国鉄労働組合(1946年発足・翌年改称)は、1951年に「動労」(国鉄動力車労働組合)、1962年に「新国労」(新国鉄労働組合連合→1968年鉄道労働組合に改称)などに分裂することになるものの、賃上げ、休日確保、職場改善などをめぐって旺盛な運動を展開していた。第2章でも触れた1949年の下山事件、三鷹事件、松川事件が人員整理に反対する国労によるものと宣伝されたこともあって勢いを失っていたものの、労働運動はまだ活発であった。
ただし、当時の国鉄の労働者は公務員であったため、ストライキ権をもたなかった。そのため、それに代わるものとして採用されたのが「順法闘争」という運動の戦術であった。これは、当該の職場に関わる法律、規程、規則を、労働者が――必要以上に――厳格に守ることによって、実質的にストライキやサボタージュをするものであった。たとえば国労が指示したのは、信号規程、ホームの安全監視、作業内規の完全励行、機関車の入出庫時間の厳守などである。こうしたことを厳密に守っていると、運行のスピードが落ち、列車が遅延し、ダイヤの混乱などが発生する。
乗客には大きな迷惑になるし、経営にも甚大な被害を与えることになる。しかし、そうした影響力によって労働組合の主張を通そうというものであった。組合の要求実現のために労働者はわざと作業を遅くしているのだが、逆にいえば、法律・規程・安全基準を大きく逸脱して無理をしなければ、大都市の通勤ラッシュはさばけなくなっていたということでもある。この順法闘争によってもっとも大きな怒りを爆発させたのは、長期間にわたって、毎日、通勤地獄に苦しんでいた乗客たちであった。
通勤客たちの起こした暴動
その怒りが頂点に達したのは、1973年の労働組合の春闘の時期に発生した通称「上尾事件」、および「首都圏国電暴動事件」においてである。同年の3月11日、動労による順法闘争が展開され、ダイヤが混乱していたため、乗車できなかった乗客たちが上尾駅に大量にあふれた。いつまでたっても乗車できず、ギュウ詰めで待たされた乗客の苛立ちは頂点に達し、その一部が暴徒化する。
暴徒たちは、電車のガラス戸を破って運転席に侵入、運転士になぐりかかり、運転席や後続車両の窓ガラスをさらに破壊してまわった。さらに、駅長事務室にも乱入して、鉄道電話機類を破壊している。このとき駅長は、乗客に暴力をふるわれて病院に収容された。また、大宮駅でも同様の騒ぎが発生している。こうして、約一万人にふくれあがった乗客たちは線路を歩きはじめ、その他の駅に散らばって、そこでも駅員に抗議し、投石したとされる。切符自動販売機が壊され現金が強奪されたり、駅員に線路上を歩かせたりするなどのこぜりあいも発生している。
翌月、ふたたび順法闘争がはじまると、4月24日夜、電車、列車の遅れに腹を立てた乗客たちが暴徒となり、より大規模な暴動へ発展している。6000人があふれた赤羽駅の騒乱をきっかけとして、暴動は新宿駅などの首都圏38駅に広がった。多くの駅事務室、券売機、電車が破壊され、放火されたところもあった。暴行、窃盗、放火などで158人が逮捕、送検(そのうち106人が起訴猶予)される騒ぎとなり、翌日にかけて600万人が混乱したといわれる。
Photo by gettyimages
3月の上尾事件では「首都圏では乗客の怒りがついに爆発」(『朝日新聞』1973年3月14日)、4月の首都圏国電暴動事件では「「乗客パワー」爆発」「壊し、燃やし、奪う」、「乗客の怒りが爆発」と報道されている。国労や動労は、乗客たちの暴動は、右翼や当局による挑発によって扇動されたものだと主張したが、警察は偶然の重なりによって発生したものとしている。仮に扇動があったとしても、日常的に鬱積していた一般の乗客たちの強い不満と怒りがなければ、ここまで大規模に広がらなかっただろう。
この大規模な鉄道暴動のキーワードは「乗客の怒り」であった。前述のように、都市への急激な人口流入、郊外の巨大団地の造成(C)、都心の工場・会社の集中(P)、それらを管理しきれない国家・自治体(G)が重なり、「満員電車」(E)という問題が発生した。とりわけ「通勤地獄」(S)は、広い大都市に住む大量の人びとが日常的に経験・共有しうるシンボリックな問題だったからこそ、ここまで大規模な暴動へと発展したのだろう。
政治的なイデオロギーをかならずしも共有しない、一般の人びとによる正当な「怒り」だったとすれば、M・カステルが同時代に分析した社会運動の図式にきれいにあてはまるようにもみえる。
こうした観点からみると、公共交通の規範は、資本主義下の大都市で働く労働者に対して、過酷な通勤という現状を――改善するというよりも――「痩せ我慢」させるイデオロギーだったと理解することもできる。しかし、これらの鉄道暴動は「社会運動」にはなっていない。むしろ、先に触れたように、数年後にはモノ扱いに「慣れ」、「麻痺」した乗客たちの姿が報道されることになる。
労働運動であった順法闘争の対立の構図は「労働者vs.経営者」であった。考えてみると、通勤客と鉄道員は、どちらも「労働者」、あるいは「都市生活者」であるという面で共通していたはずである。つまり、両者が共闘・連帯して鉄道の「経営者」(あるいはその所有者・管理者である国家)と交渉する――いわば継続的・横断的な「社会運動」にする――可能性が理論的になかったわけではない。
たとえば、通勤客・鉄道員をふくめた労働者・都市生活者たちが、都市問題が多数発生するなかでは出勤できない、働けないから、問題が解決・改善されるまでは休むべき等と主張することもできたかもしれない。そうなれば鉄道に乗客が殺到することもなかったはずだ。だが、そうはならなかった。
予測できていたにもかかわらず
たしかに、多数の人が駅にあふれたのは、順法闘争によって列車・運行が間引かれたためだろう。そのため、乗客たちは駅で長時間待たざるをえず、乗車すれば極限的な満員状態にさらされた。そういう意味で一番の被害者は乗客である。しかし、乗客が電車通勤を大幅に控えていたらどうだっただろうか。実際、順法闘争は、すでに何度かくりかえされており、事前に予告もされていた。
かなりの混雑になることは事前の報道でも予測もされている。にもかかわらず――出勤する動機や出勤せざるをえない事情は乗客ごとにさまざまだろうが――多くの人びとがいつもどおり出勤しようとした。だからこそ、鉄道から人があふれるような状況が発生したともいえる。その意味で、極度の満員電車は乗客たちみずから発生させている。
Photo by gettyimages
結局、乗客たちが感じたのは、鉄道労働者に対する「労働者・生活者としての共感・同情」ではなかった。むしろ、その怒りは、せっかく支払った運賃・税金の対価を得ることができない「消費者・納税者としての不満・憤懣」として報道された。そのため、その怒りは、大都市やそれを形作る社会体制にまでは広がらず、鉄道に対するその時・その場限りの破壊活動にとどまった。その背景には、国鉄そのもの、国鉄の労働組合、あるいは学生運動含めた左翼運動への根深い反発があったのだろう。
日本的経営における職場への忠誠心が、いつも通りの出勤をうながしたのかもしれない。日本の労働組合が企業別組合であったため、横断的な問題の共有が難しかったのだろうか。あるいは、通勤ラッシュに慣れつつ、我慢して維持してきた日常のルーティンを断たれたことに対する苛立ちもあっただろう。この鉄道暴動の原因・過程・結果についてはより複合的な分析が別途、必要になるが、本書ではその余裕はない。
いずれにしても「乗客の怒り」は、経営者(や国家という管理者)というよりも、運転士、駅員、駅長への暴行、電車・駅などの交通施設の破壊として現れた。日常的にくりかえされる都市生活で蓄積した鬱憤が――「集合的沸騰」(E・デュルケム)のようなかたちで――大都市の基盤であった鉄道システムそのものへ向けられたといえるだろう。しかし、その対立の構図は「労働者vs.経営者」・「都市生活者vs.国家・自治体」ではなく、「鉄道員vs.乗客」、すなわち「労働者vs.消費者」・「公務員vs.納税者」として報道され、理解されることになる。
結局、これらの鉄道暴動は、資本主義体制における都市構造、および高度成長期の都市問題を象徴する出来事になったが、社会運動にはつながらなかった。「労働者vs.消費者」・「公務員vs.納税者」という対立構図のなかで鉄道暴動が理解されたことは、いまからみると1980年代以降の国鉄の分割民営化、および乗客の消費者化――公共交通の「プライバタイゼーション(民営化・私事化)」――への分岐点であったということもできる。
これ以降、乗客たちのイライラ・モヤモヤは、暴動のような「集合的沸騰」、あるいは「社会運動」として昇華されることなく、鉄道員や乗客同士という個別的な存在に向けられることになる。
ストライキに対するアレルギー――ストを労働者の権利というよりも、ただの迷惑と感じるような感覚が日本社会にあるとすれば、こうした出来事は、その転換点のひとつになっているのかもしれない。
連載記事<「胸をあらわ」にして電車を降りようとする母親の姿も…「大正時代」の路面電車の「今では考えられない光景」>もぜひご覧ください。