「はっきり言って、嫌な子供でした」小4で月収3000万円、打ち合わせは叙々苑、でも財布はわざとベリベリに…内山信二(42)が「どうかしていた」と語る芸能人生の“ピーク”
7歳で出演した『あっぱれさんま大先生』をきっかけに人気子役として活躍したタレント、内山信二(42)。
現在は2人の娘を持つ父親でもある彼に、『あっぱれさんま大先生』出演の経緯、後になってわかった明石家さんまの凄味、歩くだけで拝まれてお金を渡され、最高月収は3000万円に到達した子役時代の、自ら「嫌な子供」と語る絶頂ぶりなどについて、話を聞いた。
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ーー今年で43歳、芸歴37年ですが、『あっぱれさんま大先生』(フジテレビ・1988~1996年)の出演が芸能界デビューになるのでしょうか?
内山信二(以下、内山) 7歳で『あっぱれ』に出たんですけど、6歳から事務所には入ってたんですよ。ただ、実は親が芸能界に入れたかったのは本当は僕じゃなくて、兄貴のほうだったんですよ。というのも兄貴は歌がうまくて、親は兄貴を歌手にしたかったんです。
でも、僕が子供の頃はいまと違って芸能界って遠い世界だし、お父さんは下町の魚屋だったので芸能界のことや芸能事務所のことなんかわかりやしない。それで、とりあえず弟の僕を事務所に入れてみて、芸能界ってどんなとこなのか探ろうとしたんですね。
『あっぱれさんま大先生』のオーディションでふてくされて…
ーー入ったのは、子役やキッズ・モデルの事務所ですか。
内山 ネットもないから、お父さんが新聞に募集広告を載せている劇団とかをチェックするんだけど、入所金とかレッスン料が結構な値段するんですよ。そんななか、宣材写真代の3900円で入れる事務所が新宿にあったんです。エキストラ事務所みたいなところで、そこに入ったというよりも「登録した」感じですね。
ーーレッスンなどもせず。
内山 そんなもんしないです。6歳で入ったけど、1年近く何にもなくて。お父さんが「こんなもんなのか」なんて話してたら、いきなり「オーディションがあります」って言われて、初めて受けたのが『あっぱれさんま大先生』だったんです。
ーー子役の経験無しで初めてのオーディションだから、さすがに勝手がわからないですよね。
内山 逆にそれが良かったんですよ。他の子たちは、ちゃんとした劇団に入っていて「誰か大人に会ったら、おはようございますって挨拶しなさい」って教わってるんですよ。でも、さんまさんは業界に染まっていない子供が欲しくてオーディションをしてたんですよね。だから、オーディション会場に入ってきて一発目に「おはようございます!」って挨拶した時点で、もう落とされてるという。
僕はなにも聞かされず、お父さんに「美味しいハンバーグ食べさせてやる」って言われて付いて行っただけなんですよ。だけど変な会場に連れて行かれて、見知らぬ大人たちがいっぱいいて、待てど暮らせどハンバーグなんか出てこないでしょ。それで、僕はちょっとふてくされてたんですけど、それが「業界に染まってなくて面白い」ってことで受かったんです。
「よく喋る人だなー」やたらうるさい人が明石家さんまだった
ーー結局、ハンバーグは。
内山 終わってから、無事に食べさせてもらえました。で、1週間くらい経ってから事務所に「受かりました」と連絡が来て、その次の週に「河田町のフジテレビに来てください」ってことで収録が始まった、みたいな。収録なんてのも僕にはなんだかわからなかったけど、それが狙いの番組でしたから。さんまさんと子供のやりとり、ピュアなリアクションを追いかけるっていうね。
7歳だったから、さんまさんの凄さなんて何にも理解できてませんでした。オーディションの時も大人が5人並んでて、真ん中に座ってる人がやたらうるさいんですよ。「よく喋る人だなー。誰だろ?」と思ってたら、それがさんまさんだったという。
ーー他の子も「業界に染まってない子供」ばかりで年齢も近いとなると、感覚としては学校の延長みたいなものだったのでは。
内山 そういう感じですね。同い年ぐらいの子が多くて、年上でも3つ上とか。で、収録がスタートしたのが小学1年生の9月。もうひとつの学校というか学童クラブといった感じだから、だんだん楽しくなってきたけど、行きたくないなって日も正直ありましたね。
収録が日曜だったんですよ。学校の子たちは遊んでるのに、僕だけお父さんに河田町へ連れて行かれるのを不満に思うことが時々ありましたね。
ーー出演して、すぐにブレイクを?
内山 いや、始まって2年はそんなでもなくて、小3か小4になってからですね。
ーーとはいえ、学校では出演早々に騒がれていたのでは。
内山 地元や学校では「すごいじゃん」みたいになってましたね。『あっぱれ』でさんまさんと一緒に出てるだけでも凄いのに、そのおかげで『夢がMORI MORI』に出てSMAPと共演できちゃったりするわけだから、そりゃ学校じゃ大騒ぎですよね。
他の子役の話で、学校でいじめられてたとかよく聞くじゃないですか。でも僕はそういう経験がまったくなくて、みんながちやほやしてくれたんですよね。
ーー友達から「さんまのサインもらってきてよ」とか、面倒なお願いをされませんでしたか。
内山 それが、意外と僕は喜んでもらってくるタイプで。さんまさんにサインを頼んでは、ちょっと気になる女の子にあげたりして。あと、高学年、中学あたりになると怖い系の人が出てくるじゃないですか。さすがに番長なんていなかったけど、そういう感じの人たちにサインを持っていって、目を付けられないようにしたりね。ちやほやされていたのもあったけど、そういった世渡り上手的なところもありましたね。
あと、さんまさんがサインを断らないタイプなんですよ。どんどん書いてくれちゃうから、お父さんも収録のたびにめちゃくちゃサインを頼んでは、近所の人に配ってました(笑)。
ーーさんまさんは、非常にフランクに接してくれたんですね。
内山 年末年始になると、みんなで青森とか北海道の小学校を訪ねる「分校シリーズ」っていう企画をやってたんですよ。飛行機に乗って移動するんですけど、さんまさんも僕らと一緒にエコノミーの席で。後ろにお父さんやお母さんがいて、前の方に子供たち、その真ん中にさんまさんが座ってるって感じで。宿も僕らと同じところで、お風呂もみんなと大浴場に入ってました。いつもそんな感じだったおかげで僕らも楽しくやれたし、そこをわかったうえでの接し方だったんでしょうね。だから、そこまで偉い人だとは思ってなかった気がします。「さんまさんって、すごいんだなあ」って感じるようになったのは、小学校の高学年あたりで。
ーー内山さんをはじめ、子供たちの味を引き出すのも巧みでした。
内山 それも、大人になって番組とかで子供と絡んだときに思いました。いかに、さんまさんが凄かったのかと。その子のどういうところが良くて、どういうところを引き出せばいいのかってのを瞬時に判断しちゃうんですよ。それは大人になっても、大人同士でも大変なことですからね。しかも1対1でも大変なのに、『あっぱれ』なんて1対16とかですから。完全に16人それぞれの個性や特性をパパッと見抜いて、普通の子だったのにタレントに育てていっちゃうんですもん。
ほんと、なんにもわかんなかった子たちが、さんまさんからのアイコンタクトをキャッチできるまでになっちゃう。ポジショニングなんかも、さんまさんのおかげで覚えました。あるお題が出たら、「一番最初に行くのはお前。わかってるよな」っていうのをさんまさんの目を見て判断して、「次は繋ぎでこの辺に来て、オチはこっちに来るだろうな」っていうのをみんな考える。そういう意味での学校にもなってたんですよね。しかも自然な形で。
「ロケが終わったら、両手に団子、ポケットの中に札束みたいな」
ーーそのおかげで、内山さんはブレイクするわけですよね。
内山 小4あたりで有名になって、ガーンと売れましたけどね。でも、僕の芸能人生ってそこがピークで、後は徐々に下がっていきましたから(笑)。
『あっぱれ』で街頭インタビューみたいのをやってて、巣鴨のとげぬき地蔵尊でロケしたんですよ。そうしたら、おばあちゃんが次々と寄ってきて「これで好きなもの買いなさい」ってお金を渡してくれるんですよ。お金だけじゃなくて、団子なんかも持たされて。ロケが終わったら、両手に団子、ポケットの中に札束みたいな。
ーー内山さんって宝船に乗っていそうな雰囲気もありますよね。うっかり、手を合わせたくなるといいますか。
内山 街頭ロケに出ると、いつもそんな感じでしたね。実際、何度か拝まれたことがあったし。「日本の孫」みたいな扱いをしてくれて、どこに行ってもお金をもらえましたね。このルックスやキャラクターが良かったのかなとは思います。
また、テレビ局に出入りしている子供の役得みたいなものがあって。正月になっていろんな局に行くと、プロデューサーさんや芸人さんがお年玉をくれるんですよ。バブルな時代だったので、毎年100万円くらいはもらってましたね。
ーーイベントでソフトクリームを舐めて、ギャラ50万円なんて仕事もあったと。
内山 そうそう。「内山くんとソフトクリームを食べよう」みたいなイベントで。小4なんて、気の利いたことなんか喋れないじゃないですか。だから特設会場みたいなとこに出ていって、お客さんに挨拶して、ソフトクリームをペロンと舐めるという、それだけ。それで1ステージ50万円ですから。時代がバブルだったのもあって、全員がどうかしてましたね。
ーー小4で最高月収が3000万円だったそうですけど、それも頷けますね。
内山 ブレイク時は、新宿のエキストラ事務所から違う事務所に移っていたんですけど、当時って給料が現金受け渡し制だったんですよ。自分で1000万円単位の受領書のサインを書いて、確定申告も一応やってました。
小4でそんなですからね。周りの大人もちやほやしてくれるし、感覚がおかしくなっていくんです。はっきり言って、嫌な子供だったと思いますね。
ーー嫌な子供。
内山 芸能界にいると、何かと特別扱いしてもらえることがあって。ステータスって言ったら嫌な感じかもしれないけど、ゲームボーイが発売1週間前に手に入ったり。そういうことがあるので「芸能界にいて良かったな」と感じちゃってたんですけど。
地元でも、学校の友達と駄菓子屋に行くじゃないすか。皆が100円玉を握りしめてその額で買えるものを考えに考えるなか、僕だけ万札を持ってたりとか。他の子たちは10円や20円を出してスーパーボールのくじを引いて、「うわ、小さい」とか「今度はちょっと大きい」なんて一喜一憂してるけど、僕は万札を駄菓子屋のおばあちゃんに渡して「これ、全部ください」って平然と言ってましたし。
ーー年齢的にクレジットカードは持てないゆえの現金主義。
内山 マジックテープでベリベリッてやるナイロンの財布に、札束がギッシリですよ。本当は、ハワイ旅行に行った時にヴィトンの財布を買ってたんですよ。でも周囲の反応が悪くて、さすがに小4でヴィトンは可愛げがないのかと思って、ベリベリの財布に変えました。
「子供のくせに偉そうに見えちゃいけない」ってとこに敏感で、持ち物なんかは安い物を持つように気を付けてましたね。ほんと、嫌な子供ですよ(笑)。
取材の話が来ると「今半でなきゃやらない」
ーー楽屋弁当や差し入れなどで美味しいものを食べてたら、「給食なんて食べてられない」といった状態になったりは?
内山 打ち合わせで連れて行かれるのが、叙々苑、游玄亭、今半とかでしたから。正直、いいものは食べてましたね。もちろん、給食は給食の美味しさがあって揚げパンとかソフト麺とか大好きだったけど、取材の話が来ると「今半でなきゃやらない」とかは普通に言ってましたね。
お腹が減ったら、フラッと寿司屋とか鰻屋に入ってました。小学生1人だとさすがにアレなので、マネージャーと一緒に入って、支払いはすべて僕持ちです。
ーー小学生にご馳走してもらうって、大人としてはどんな気分だったんでしょうね。
内山 マネージャーには苦労かけてたんですよ。小4、小5だと、ゲームソフトとか欲しいじゃないですか。「ドラクエ」の発売日なのに仕事があるときは、マネージャーに代わりに並んでもらったりして。「並んでくれないと仕事行かない」なんてワガママも言ってましたしね。
ただ、子供心にいけないことしてるなとも感じていたので、「今日、ちょっとお寿司食べていかない?」なんて僕から誘うんですよ。本気で僕のことを憎んでたら一緒に飯なんか食わないだろうと思ってたけど、めちゃめちゃ食ってたんで、「これで納得してくれてんだろうな」みたいなね。
ーー人気もお金も凄くなると、さまざまな感覚が変わっていくと。ちなみにご家族は、そのあたりはどうでしたか。
内山 お父さんも変わりましたね。朝に軽トラに乗って出掛けて、夕方にベンツに乗って帰ってきたことがありましたから。
〈 15歳で仕事がピタッと消え、生米をかじる壮絶な借金生活に転落 内山信二を“暗黒時代”から救った明石家さんまの一言 〉へ続く
(平田 裕介)