部下が「指示待ち社員」か否かを見極める“2つの方法”とは?【コンサルが解説】
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時代が変わっても、マネージャーの多くが「主体性のない部下」に頭を悩ませている。指示待ち社員が増えるほど、組織力も低下していくという。そこで、サントリーやソフトバンクなどの200以上の企業を支援し、さまざまな企業の改革を成し遂げてきた横山信弘氏が、主体性に欠ける部下に“行動を起こさせるコツ”について解説する。※本稿は、横山信弘『若者に辞められると困るので、強く言えません マネジャーの心の負担を減らす11のルール』(東洋経済新報社)の一部を抜粋・編集したものです。
多くのマネジャーが頭を抱える
「主体性」なき部下の指導
20年近く「絶対達成」する組織開発の仕事をしてきて、数えきれないほどの経営者、マネジャーの方々と接してきた。その長い歴史を振り返ってみると、彼らが口にする「組織の課題」は業界や規模にかかわらず、だいたい同じだとわかっている。
その課題として挙がるフレーズの中でも、ダントツに多い表現が、「主体性」である。
以前は「モチベーション」という表現が耳についたが、最近はめっきり減った。しかしながら「主体性」というフレーズはどんなに世代が変わっても同じ。
今もまだ大きな課題として受け止められている。
「主体性」という表現には、受け身にならず、もっと自ら能動的に行動してほしい、考えてほしい、コミュニケーションをとってほしい、というマネジャーからの願いがこめられている。
一方で、「主体性なんか期待せず、もっと強制させるべきだ」という意見も根強い。
昭和時代から剛腕をふるってきた部課長が言うならともかく、若いスタートアップ企業の経営者からも聞く。確かに、「主体性」ばかり重きを置いてもうまくいかないケースは多いだろう。時には「強制」も必要だ。
では、どんなケースだと主体性を重んじ、どんなケースだと強制をしたほうがいいのか。相手の状態によっても変わるだろう。
多くのマネジャーが部下指導で悩む「主体性」について解説していきたい。
主体性に欠けている人は
ビジネスパーソンとして病気
まず、多くの人が勘違いしていることを先に書いておこう。
それは、主体的でないことが、どれほど重大な問題を抱えることになるかについてだ。
誤解を恐れずに書くと、特殊な事情がないのにもかかわらず、主体性に欠ける人は、ビジネスパーソンとして「病気」だ。いったんその病気を治してから出直したほうがいい。
そう思えるほど深刻な疾病なのだ。
なぜか?
主体的に仕事をするのは、ビジネスパーソンとして当たり前のことだからだ。これだけAIやロボットが単純業務を自動化する時代に、「指示待ち」の姿勢を貫こうとするのは無理がありすぎる。
また、指示や具体的な方針が出るまで働かない受け身の姿勢が、どれほど周りの人たちに負担をかけることになるのか、少し考えればわかるはずだ。
主体性に欠ける、というだけで組織にはマイナスである。そのことは必ず胸に刻んでほしい。指導する立場のマネジャーも自覚すべきだ。
「なかなか主体的に動けないようで」と呆れている場合ではない。上司は部下に「深刻な病気だ」と伝える義務がある。
とはいえ、そのように厳しく言ってもそう簡単に変わるものではない。
周りに受け身の人が多すぎるのか、それとも本人の感度が著しく低いのか。いずれのケースであっても、この問題を解決するには、個人ごとに、丁寧に働きかけなければならない。
では、そのために、マネジャーは何をすべきなのか?
最初にやるべきことは、その人が本当に主体的なのか、主体的でないのかを見極めることだ。
主体性の有無を見極める
キーワードは「モノサシ」
主体的でない人は、自分が主体的でないことを認識していない。
「私はどちらかというと、自ら主体的に行動するほうです」
このように採用面接でアピールする求職者がいるが、何度騙されたかわからない。もっと信用できないのが他薦だ。
「Yさんはとてもやる気があるから、プロジェクトのメンバーになったら主体的に取り組んでくれるんじゃないか」
このような言葉もまったくあてにならない。
主観的な判断ではなく、客観的に主体性が「ある」か「ない」かを判別すべきだ。
その判別は、
(1)インサイドアウト/アウトサイドイン
(2)やりすぎ/やらなすぎ
という、2つの視点で見極めることができる。
最初に紹介するのが「インサイドアウト」「アウトサイドイン」の切り口だ。
「インサイドアウト」は、問題が自分の中にあると考えることを指す。逆に、「アウトサイドイン」は、問題が自分の外にあると考えることを指す。
この違いは、自分の中に「モノサシ」があるかないかによって生まれる。
「モノサシ」がない「アウトサイドイン」の人は、目標ではなく身近な人の思考や行動に反応する。
自分の現状を正しく認識せず、他の人が勉強していたら自分も頑張る。そうでなければ「まだいいか」と思って誘惑に負ける。衝動やストレスをコントロールできない他責寄りの思考だ。
反対に「インサイドアウト」の人は、自分の中にある「モノサシ」で自ら行動を選択する。
当然「インサイドアウト」の人は、成果が出なければ自分の責任だと捉えやすい。自分がコントロールできることは何か、コントロールできないことは何かを見極め、コントロールできることに力を尽くす。
やらなすぎる部下に
必要なのはケタ違いの努力
よりわかりやすいのは、「やりすぎ」か「やらなすぎ」かの切り口だ。
熟練の人でない限り、「ちょうどいいバランス」にはならない。普通は、「やりすぎ」か「やらなすぎ」か、のどちらかになる。不慣れなときは、加減がわからないからだ。
一例として報連相を取り上げてみよう。
やりすぎの人は、たとえば上司から、「そんなことまで相談しろとは言っていない」「こんなに逐一、報告のためのメールをもらったら仕事に支障が出る」「努力は認めるけど、無駄な努力はやめろ」と注意される。
主体的な人は、これぐらい「やりすぎ」だ。だから周りから指摘されて、ちょうどいい塩梅に落ち着く。
上司の基準が〈100〉だったとしよう。しかし、やりすぎる人は、その基準をはるかに超えて〈300〉ぐらいやってしまう。だから上司が驚くのだ。
「そこまでやらなくっていいよ」と指摘を繰り返されることで、〈300〉から〈200〉、〈200〉から〈150〉、最終的に〈120〉ぐらいまで落とすだろう。上司の基準より少し多いが、「まあ、いいだろう」と受け止められる。
一方、やらなすぎの人は、努力量が〈0〉に近い。〈10〉とか〈20〉なのだ。だから上司に「もっと主体的に報連相をしろよ」とハッパをかけられる。それでもせいぜい〈10〉を〈15〉ぐらいにしかアップできない。本人は1.5倍にまで増やしたので満足かもしれないが、上司の基準にはまったく届かない。
何倍にしようが、もともとの母数が少なすぎるのだ。いくら頑張ってもその努力は認められない。
やらなすぎの人は、文字どおり「桁違い」の努力をしないと、周りからは主体性を発揮しているとは思われない。そのことは必ず頭に入れておこう。
もともと〈10〉だったものを、〈100〉とか〈1000〉にするぐらいにする気持ちが必要だ。そうでない限り、アウトサイドインの人がインサイドアウトの思考を持つことなど、できないのである。
どれくらい努力すれば
認められるかを体験させる
それでは、どのようにしたらバランスのよい主体的な人に変化するのか?
やりすぎの人は簡単である。
〈300〉→〈200〉→〈150〉→〈120〉と努力量を減らせばいいだけだ。
能動的にやりすぎなのだから、それほど負荷を覚えさせることなく、期待基準へと近づけていける。
一方、やらなすぎの人は、「桁違い」の努力が必要になるゆえに、多くの場合、〈10〉→〈15〉→〈20〉→〈40〉→〈60〉→〈65〉→〈70〉→〈74〉……。という感じで徐々に期待基準に近づけていくことになる。本人はどれぐらい足りないのかをイメージできないので、恐る恐る増やしていくから時間がかかる。
こうした「やりすぎの人」と「やらなすぎの人」の違いは、考え方の違いから生まれている。
やりすぎの人は、うまくいくか確実ではなくても、未来に期待し、時間や労働力を投下する、「期待最大化」の思考を持っている。
『若者に辞められると困るので、強く言えません マネジャーの心の負担を減らす11のルール』 (東洋経済新報社) 横山信弘 著
一方で、やらなすぎの人は、確実に手に入るものには力を入れるが、そうとは限らないものには及び腰になる、「不安最小化」の思考を持っている。
ゆえに、主体性に欠ける人を変えるためには、主体的に動くことの不安を減らしていく必要があるのだ。
そのやり方とは、主体的に動くべき努力量を、強制して「理解」させることだ。
ただし、ここで言う「理解」とは、「理解=言葉×体験」と考えてほしい。言葉と体験、両方が伴って理解なのである。
特に、過去の体験が乏しい若者は、「理解は前になく、後にある」と考え、「体験」を「強制」させる必要がある。