紫式部と夫・宣孝の新婚早々の痴話喧嘩とは? 時代考証が解説!
2024年大河ドラマ「光る君へ」の主人公・紫式部と藤原道長。貧しい学者の娘はなぜ世界最高峰の文学作品を執筆できたのか。古記録をもとに平安時代の実像に迫ってきた倉本一宏氏が、2人のリアルな生涯をたどる! *倉本氏による連載は、毎月1、2回程度公開の予定です。
腸が引きずり出される――行成の夢
大河ドラマ「光る君へ」25話では、蔵人頭の藤原行成(ゆきなり)が、腸が引きずり出される夢を見たことが語られた。これは『権記』長徳四年(九九八)七月十六日条に記録されたもので、「強力(ごうりき)の者」が行成の臍(へそ)の下二寸の所から腸を引き出したという壮絶な夢である。
「腸の遺(のこ)った所は腹中にわずか二寸だけとなった。この腸を引き出されてしまったならば、命は絶えてしまうに違いない。その時、『不動尊(ふどうそん)』の三字が、この二寸の腸の中に現れた。この字は、初めは最小ではあっても、段々と増長して腹中に満ちた。すぐにこの腸は、また還り入った」と続く。
行成は幼い頃から密教の不動明王(ふどうみょうおう)を信仰していたのだが、心神不覚という非常時において、行成は不動尊を心の中で念じたに過ぎないのであった。一心に念じていた言葉が、画像ではなく文字で脳裡(のうり)に出てくるところなど、さすが行成という感がある。
なお、後に行成は不動信仰から浄土信仰へと替わっていくが、その過程も夢で表わされる(倉本一宏『平安貴族の夢分析』)。それらもドラマで語られるのか、興味深いところである。
鴨川の洪水――邸第や小家が密集
鴨川(かもがわ)と桂川(かつらがわ)に挟まれ、貯水量は琵琶湖と同じという巨大な地下水脈も流れていた平安京は、つねに洪水の危険性と背中合わせであった。
特に鴨川沿いには藤原道長の土御門第(つちみかどてい)や藤原為時(ためとき)の堤第(つつみてい)も含め、多くの貴族の邸第(ていだい)や、下衆(げす)や下人の小家が密集していた。鴨川の堤と東京極大路(ひがしきょうごくおおじ)との距離は一条大路末でおよそ三〇〇メートル、六条以南では鴨川は平安京に食い込んでいた。決壊すればその被害は容易に予測できよう。さらには河原にも多数の人々が住んでいたから、その人たちはどうなるのか、心配でならない。
鴨川
長徳四年九月一日(ユリウス暦九月二十三日)には、大雨によって一条の堤が決壊し、鴨川が氾濫して京中に入ったことは、海のようであったという。この堤は、春から災害がつづいたものの、庶民の疫病によって万事を忘れていたので、修理をおこなっていなかったのである(『権記』)。まさに人災という言葉が相応(ふさわ)しい(倉本一宏『平安京の下級官人』)。
道長の辞表と一条天皇
この頃、道長はにわかに腰病を発し、三月三日に出家の意を奏した。一条は、「病は邪気(じゃき)(物怪(もののけ))の行なったもの」として、これを許さず、「外戚の叔父で、朝廷の重臣として、天下を治め、朕の身を導く事は、現在、丞相(道長)以外には誰がおろうか。今、丞相の病を聞き、歎くことは限り無い」という恩詔(おんしょう)を伝えた(『権記』)。
ただし、一条は道長に、「道心が堅く、必ず出家の志を遂げるのならば、病が癒えてから心閑(しず)かに出家してはどうか」「本意(ほい)を遂げるについては、何事が有ろうか。よく思慮を廻らし、重ねて申請せよ。その時、あれこれ命じようと思う」とも言っている(『権記』)。道長が回復後に出家を申し出たとしたら、一条はそれを許して、次の執政者として顕光または伊周を任命する可能性もあったことになる。
三月十二日、道長はまた辞表を奏上した。これに対する勅答は、大臣の辞任は許さず、文書(もんじょ)の内覧と近衛随身を停めるというものであった(『権記』)。この時の道長の辞表(『本朝文粋(ほんちょうもんずい)』)に、
臣(道長)は、声望が浅薄であって、才能はいい加減である。ひたすら母后(詮子)の兄弟であるというので、序列を超えて昇進した。また、父祖の余慶(よけい)によって、徳もないのに登用された。……二兄(道隆・道兼)は、重きを載せて早世した。
とあるのは、道長の偽らざる本音であろう。このまま道長が、長女の入内や長男の元服(げんぷく)より以前に、死去したり出家したりしていれば、まさに一代限りの中継ぎ政権に終わったはずである。この年、彰子は数えで十一歳、頼通はわずか七歳であった。
なお、この時に停止された道長の内覧が復活されたという史料は存在しない。長保元年(九九九)三月十六日の東三条院行幸の際に道長に随身を元のごとく賜うという記事が見えるが(『日本紀略』『御堂関白記』)、あるいはこの時に内覧も復活されたのであろうか。
個人が紙を購入するには
越前の和紙が取りあげられていたが、当時から越前は和紙の名産地であった。ただし、現在のものと同じようなものであったかどうかは定かではない。
当時、紙は非常に貴重で高価であった。律令制では製紙は図書寮(ずしょりょう)の所管であったが、平安時代になると、『延喜式(えんぎしき)』によれば中男作物(ちゅうなんさくもつ、中央官司や封主の必要とする物品を八歳以上二十一歳以下の中男の雑徭〈ぞうよう〉によって調達して貢進するもの)として一人が紙四十張を官府に輸する国が四十一国に達した一方、図書寮特設の製紙場である紙屋院(かみやいん)でも、年二万枚の上質紙(紙屋紙〈かみやがみ〉)を造って内蔵寮(くらりょう)に納め、諸官司に分配した。
ただし、これらはあくまで、諸官司の用途に用いたものである。個人が購入するとなると、東西の市で買えばいいかというと、そうはいかなかった。『延喜式』では、東市(ひがしのいち)五十一、西市(にしのいち)三十三の廛(てん、店)が列挙されているが、筆廛・墨廛はあるものの、紙を扱う廛はなかったのである。都人が個人で紙を購入することは想定していなかったのであろう。
いずれにしても当時の紙は高価で、しかも誰でも手に入るものではなかったことは明らかである。紙屋院によほど顔の利く人物か、地方から紙を貢進される有力な人物に限られたはずである。『延喜式』では中男作物として、越前からも紙を貢進することが規定されているが、為時が受領(ずりょう)の時代に大量の紙を私物化できたとも思えない。
紙が高価で貴重であった当時、いったい中級官人の寡婦(かふ)にして(ドラマではまだ宣孝は死んでいないが)無官の貧乏学者である為時(同じくまだ越前守の任にあるが)の女である紫式部に、『源氏物語』を書くほどの料紙が入手し得たものであろうか。下書き用には為時の使い古しの反故紙の紙背(しはい)を使用したにしても、まさか清書用にはそうはいくまい。為時にしても、大学(だいがく)の学生(がくしょう)であった時には紙も融通してもらえたであろうが、無官となった時代には、どうやって紙を調達していたのであろうか。
こういう状況から、後の話になるが、紫式部はいずれかから大量の料紙を提供され、そこに『源氏物語』を書き記すことを依頼されたと考える方が自然であろう。そして依頼主として可能性がもっとも高いのは、道長の他にはあるまい(倉本一宏『紫式部と藤原道長』)。
『小右記』の記事はいかに書かれたか
さて、私が注目したのは、実資が間明(まあ)き(暦の行と暦の行の間)三行の具注暦(ぐちゅうれき)に日記を記録していたことである。『小右記』には、「暦記(れきき)」や「暦裏(れきうら)」という記述があることから、もともとは具注暦に記していたことは確実であるが、道長のように間明き二行の具注暦は作れなかったであろうから、あれだけの膨大な量の記事を記録するためには、毎日、具注暦を切っては、間に紙を貼り継ぎ、その紙に記事を記すしかなかったのではなかろうか。
そして、特に独立した文書(もんじょ)や書状、また儀式の次第を記したメモ(消息、懐紙(かいし)、笏紙(しゃくし)、書冊(しょさつ)、草子(そうし)など)が手許にある場合は、それを日付の行と日付の行の間に貼り継いだり、時には裏返しにして貼り継ぎ(裏書〈うらがき〉としたわけである)、その紙背(しはい、つまり暦の面)に記事を記したりしたのであろう。
懐平(かねひら)や公任(きんとう)、資平(すけひら)や資房(すけふさ)、また頼通から届いた書状(主に儀式や政務に関するもの)を貼り継いだ場合もあったものと思われる(倉本一宏『摂関期古記録の研究』所収予定)。
キサキとして期待される彰子
26話では、彰子の着裳と入内の準備が描かれる。病の中でも道長は着々と権力基盤の構築に手を打っていたのである。
長徳四年八月十四日、行成に自分の辞表を奏上させた際に、何事かの「秘事」を一条天皇に奏させた。一条は辞表を却下し、「秘事」に答えた。行成はその際、「温樹(おんじゅ)を語らず」という言葉を記している。これは、『漢書(かんじょ)』孔夫(こうふう)伝や『蒙求(もうぎゅう)』に見える語で、「朝廷内のことをみだりに口にしないこと」を指す。十一歳に達した彰子の入内に関わることと考えるのが穏当であろう。ちなみに行成は、この後に詮子の許を訪れ、翌十五日に、一条の勅答を道長に告げている(『権記』)。
道長の長女である彰子は、長保元年(九九九)二月九日、著裳(もぎ)の式を迎えた。いまだ数えで十二歳ながら、これで大人ということになったわけである。詮子から装束が届いているのは、国母(こくも)が道長の女をキサキとして期待していることを示すものであろう。香壺(こうごの)筥(はこ)を贈った定子の心情は、いかなるものだったことか。
十一日、勅使(ちょくし)が訪れ、彰子を従三位に叙すという一条の仰せを伝えた(『御堂関白記』)。これは、正五位下の元子(がんし)や義子(ぎし)よりはるかに優越するものであり、一条や、むしろ詮子の、彰子入内に対する期待がうかがえる。
紫式部の手紙を他人に見せた宣孝
さて、長徳四年の冬に宣孝と結婚した紫式部であったが、翌長保元年正月十日頃には、さっそく痴話喧嘩(ちわげんか)の歌を残している。紫式部の性格の強さを示すものでもあろう。
それは、宣孝が紫式部の送った手紙を他の人に見せたと聞いたので、今までの自分の出した手紙をすべて集めて返さなければ返事は書かないと、使者に(手紙ではなく)口上(こうじょう)で言わせたところ、宣孝が、すべて返しますと言って、これでは絶交だねとひどく怨(うら)んでいたというものである。宣孝としてみれば、文才豊かな(自分よりは)若い新妻の歌を見せびらかして自慢したかっただけかもしれないが、そんなことが女性に通用するはずがない。
32 閉ぢたりし 上の薄(うすら)氷(ひ) 解けながら さは絶えねとや 山の下水
(氷に閉ざされていた谷川の薄氷が春になって解けるように、折角うち解けましたのに、これでは、山川の流れも絶えるようにあなたとの仲が切れればよいとお考えなのですか)
まったく、夫婦喧嘩というのは、はたから見れば馬鹿馬鹿しい話でも、本人たちにとっては重大な営為なのであろう。紫式部の歌になだめられたはずの宣孝は、「浅い心のお前との仲は切れるなら切れるがいいんだよ」という歌を寄こし(33)、「もうお前には何も言うまい」と腹を立てたが、紫式部は笑って歌を返した。
34 言ひ絶えば さこそは絶えめ なにかその みはらの池を つつみしもせむ
(もう手紙も出さないとおっしゃるなら、そのように絶交するのもいいでしょう。どうしてあなたのお腹立ちに遠慮なんかいたしましょう)
宣孝は結局、夜中になって、「お前には勝てないよ」と降参することになる。父娘ほども年齢の離れた夫に対して、結婚後すぐに主導権を握る紫式部もさすがであるが、希代の天才である紫式部とこのようなやりとりをすることのできる宣孝というのも、考えてみれば大した男ではある。
桜は旧妻、桃は紫式部
この春、瓶(かめ)に挿してあった桜がすぐに散ってしまったので、桃の花を眺めて、つぎの歌を送った。
36 折りて見ば 近まさりせよ 桃の花 思ひぐまなき 桜惜しまじ
(折って近くで見たら、見まさりしておくれ、桃の花よ。瓶にさした私の気持ちも思わずに散ってしまう桜なんかに決して未練はもたないわ)
桃を自分に、桜を宣孝の別れた旧妻(の一人)になぞらえて、結婚してみたらいっそうよく見える女であったと思われたいとの寓意(ぐうい)を含むとされる。その気の強さもさることながら、日本的な桜ではなく、中国的な桃に自分をなぞらえるなど、いかにも漢籍(かんせき)に詳しい紫式部ならではである。宣孝は、「百(もも)にも通じる桃は、すぐに散ってしまう桜より見劣りするようなことはない」という歌を返している(37)。実際には百年どころか、二年半ほどの結婚生活となってしまったのであるが。
一般的に日本では賞翫(しょうがん)されることのない梨の花も詠んでいる。
38 花といはば いづれかにほひ なしと見む 散りかふ色の ことならなくに
(桜も梨も花という以上は、どれが美しくない梨の花と見ようか。風に散り乱れる花の色は違っていないんだもの)
すでに当時の一般的な婚期を過ぎ、美人という評判も立っていない自分を、梨の花にたとえたものであろうか。これも中国では「長恨歌(ちょうごんか)」にあるようにもてはやされる梨の花を詠みこむあたり、『枕草子』第三五段の「木の花は」に通じる美意識である。
ともあれ、こうやって紫式部の結婚生活ははじまった。このまま幸福な日々がつづくと、このときには思われたことであろう(倉本一宏『紫式部と藤原道長』)。