大谷翔平が発言「彼にはかなわない、負けたと思いました」青森にいた“怪物中学生”…なぜプロ野球を諦めたのか? 本人語る「大谷と初めて話した日」
大谷翔平に「かなわない」と言わしめた大坂智哉の今
今年、30歳を迎える大谷翔平世代、いわゆる1994年度生まれの代。振り返れば小・中、高校時代には「大谷以上の怪物」といって差し支えなかった男たちがいた。大谷世代の“天才たち”の人生と、愛憎混じる野球への思い――「大谷に“かなわない”と思わせた」大坂智哉の証言。【全4回の1回目/2~4回も公開中】
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白いユニフォームにオレンジ色の「55」が映える。その日、お目当ての選手は女川の町民野球場にいた。
仙台駅から仙石線、石巻線と乗り継ぎ、約1時間半で女川駅に到着した。球場はそこから車で約5分のところにあった。
女川は2011年の東日本大震災のとき、もっとも被害の大きかった海沿いの街である。街全体が新しく感じられるのは震災時、あらゆるものが津波の被害に遭い、のちに修復および再建されたからだ。
背番号「55」と言えば、ひと昔前までは巨人、ヤンキースで活躍したスラッガー松井秀喜の象徴だった。だが、令和の世の中においてはヤクルトの村上宗隆だろう。左打席に立つオレンジ色の55番も、さほど上背はないものの、いかつい風貌、筋骨隆々とした体型、そして力感のあるフォームはどことなく村上を想起させた。
その選手こそ17年前、あの大谷翔平にかなわないと思わせたという大坂智哉だった。
諦めか、嫉妬か…同学年に大谷翔平がいること
大谷の同学年に話を聞きたいと思った理由。それは大谷のような偉大過ぎるスターが同じ年齢にいるとはどういうものなのかを聞きたかったからだ。
目標になる程度ならまだ励みになるかもしれないが、大谷の偉大さはどう考えてもそんなにかわいいものではない。野球選手にとっては希望どころか、絶望でしかないのではないか。
私は、大谷とほんの一瞬でもすれ違ったことのある同学年プレイヤーたちに何よりも「大谷を見ていて絶望したことはないのか」と聞きたかった。
勘弁してくれ――。
諦観のような、嫉妬のような、そんな遣り切れない、焼け付くような気持ちを抱えているのではないかと想像したのだ。
大谷に「かなわない」と言わしめた男
取材を始めようと資料を渉猟する中で見つけたのが大坂の名前だった。大谷は中学1年の夏、大坂を見て上には上がいることを思い知ったのだという。
2017年夏に発行された『Number』誌933号の中で、大谷はこう言っていた。
〈長者レッドソックスに大坂君というピッチャーがいて、これはすごかった。そのときはもう、かなわない、負けたと思いましたね。僕よりでっかくて、体すげえな、すんげえ力だな、すげえ球も投げるなと思って、上には上がいるんだなと……〉
ところが、17年のときを経て、立場は完全に逆転してしまった。最初に会う人物は、大坂を置いて他にいないと思った。
大坂と大谷「中1夏の出会い」
何気ないやりとりだったそうだ。
「ホームラン、何本ぐらい打ってるの?」
身長168センチでがっちりとした体格だった一塁手の大坂は、ファーストベースにやってきた170センチ以上はあろうかという、しかし、大坂とは対照的にひょろりとしていた同学年の大谷にこう尋ねた。
大谷はほとんど表情も崩さずに淡々とした口調で返してきた。
「35、6本くらいかな」
大坂のリトルリーグにおけるホームラン数は通算28本だった。ただ、大谷のホームラン数を知っても別段、すごいとは思わなかったという。
バケモンとバケモンの邂逅――。それは2007年6月3日、中学1年生の夏のことだった。全日本リトルリーグ野球選手権東北連盟大会の決勝で2人は初めて相まみえた。場所は、福島県郡山市にある2万人弱収容の開成山野球場(現・ヨーク開成山スタジアム)のフィールド上だった。
プロ野球の世界において2007年と言えば、入団3年目で本格化し始めたダルビッシュが沢村賞を受賞し、ルーキーの楽天・田中将大が11勝を挙げ新人賞を受賞した年でもある。
青森にいた怪物…大坂の評価
大坂は青森県八戸市にあるリトルリーグのチーム、長者レッドソックスの「四番・エース」だった。当時、八戸・青森リーグには6チームが所属していた。長者レッドソックスは、その中で抜きん出た存在だった。理由は簡単である。大坂がいたからだ。
長者レッドソックスのライバルチームだった青森山田リトルの元エースで、大坂と同学年だった本間康暉が思い出す。
「バケモンでしたね、大坂は。東北大会につながる試合は4回ぐらいやって、全部負けました。大坂に抑えられて、大坂に打たれて負けるんです。真っ直ぐは張っていても打てない。そこに変化球を混ぜられたら、百パーセント空振りです。スコアは、ほぼ1-0だったと思います。だいたい大坂のホームラン1本で負けるんで。2ストライクに追い込んで、外に外そうと思ったら逆方向にバコーンって打たれたこともありました」
大坂が初めて大谷を見た日
大坂は東北大会に出場するまで大谷の存在を知らなかったという。試合後、インタビューのために私の目の前に現れた大坂は打席の中の堂々としたイメージとは打って変わって控えめで、体も打席の中よりも小さく感じられた。
「リトルの頃、自分の中では東北大会までいったらすごいことだと思っていて。なので、青森県内のすごいなと思える選手のことは知っていたんですけど、県外の選手のことまではわからなかったんです」
少年と言っていい年代の大坂は、まだ本州最北端の小さな世界で生きていた。
大坂と大谷が初対戦した6月3日は、準決勝2試合と決勝が予定されていた。リトルリーグの大会ではダブルヘッダーはざらにある。
準決勝の第1試合は岩手県の水沢パイレーツと福島リトルがぶつかった。その試合で、大坂はとんでもない記録を目撃することになる。
〈つづく〉