混雑率155%は日本でいちばん…日暮里・舎人ライナー“ナゾの終着駅”「見沼代親水公園」には何がある?
毎年7月ごろになると、国土交通省から「混雑率」なるデータが発表される。鉄道路線ごとに、主要区間がどれくらい混み合っているかを示すものだ。
まあ、毎日満員電車に揺られていると、混雑率という数字の形で改めて突きつけられたところであまり気持ちの良いものではないような気もする。が、ひとつの目安があるから、混雑解消のために頑張りましょう、という具体的な目標も持てるわけで、どんなものでもデータはないよりあったほうがいい。
そんなわけで、最新の(つまり今のところは2022年度)のデータを見ると、日本一の混雑率の路線は、日暮里・舎人ライナーである。その混雑率は、155%。
やっぱり数字で言われてもピンとこないところもあるが、少なくとも朝のラッシュ時間帯にはかなり混み合っているということだけは間違いない。2022年度はまだまだコロナ禍の影響が大きかったご時世。もしかすると、いまはもっと混んでいるかもしれない。
だがしかし。この日暮里・舎人ライナーという鉄道路線。いったい、何者なのだろうか。
混雑率155%は日本でいちばん…日暮里・舎人ライナー“ナゾの終着駅”「見沼代親水公園」には何がある?
“日本でいちばん混んでる路線”の終着駅を目指す
もったいぶっても仕方がないので説明すると、日暮里~見沼代親水公園間を結んでいる約10kmの路線だ。走っている場所は荒川区から足立区にかけての東京区部の北の端。西には京浜東北線、東には東武スカイツリーラインが通るその間をまっすぐに北に向けて走っている。
ふつうの鉄道とは違い、ゴムタイヤを履いた車両が無人運転で高架の上を走ってゆくという、いわゆる“新交通システム”という特徴もある。鉄道であって鉄道でないような、でもやっぱり鉄道です、といったところだろうか。
運営しているのは東京都交通局(つまり都営地下鉄や都電荒川線の仲間、というわけだ)。2008年に開業した、比較的新しい路線である。
ただ、こう説明をしたところで、混雑率の数字と同じでいまひとつピンとこない。なぜならば、日暮里・舎人ライナー、自分自身が沿線に住んでいたり、また知り合いに沿線住民がいたりでもしない限り、そうそう乗る機会のない路線なのだ。
他の路線との接続が、途中では西日暮里駅と熊野前駅(都電荒川線との乗り換え駅だ)だけというのも、縁のなさを感じてしまう理由かもしれない。そんな路線が、日本一の混雑率とは、いったいどういうことなのだろうか。
高架のホームで待ち構えていた「5両編成の小さな車両」
そういうわけで、日暮里駅から日暮里・舎人ライナーに乗った。高架のホームで待ち構えていたのは5両編成の小さな車両。中もそれほど広くなく、全体的にこぢんまりとしている印象だ。高い混雑率の原因は、このあたりにもあるのだろう。平日の真っ昼間というのに、発車する頃には立っているお客もちらほらいるくらいには混み合っている。
運転士がいない小さな電車が、ゆっくりと日暮里駅を出発する。しばらくは山手線に沿って走り、西日暮里駅を過ぎたところから進路を北に。ここから先は、ほとんどまっすぐ北上してゆく。熊野前駅を出ると、隅田川と荒川を続けて渡って荒川区から足立区へ。車窓の右手後方には、天高く聳える東京スカイツリーがよく見える。
そして、高架の上から見下ろす沿線風景は、ほぼ完全なる住宅地である。商業施設の類いや駅名にもなっている舎人公園といった公園、緑地の類いも見えるけれど、だいたいは住宅密集地。マンションから戸建ての家まで、たくさんの住宅がひしめいている。
そんな住宅地を見下ろしながら、日暮里・舎人ライナーはまっすぐに北に向かって走ってゆく。この見渡すばかりの住宅地で暮らしている人たちが、朝になると日暮里・舎人ライナーで都心に向かう。それが混雑率日本一のいちばんの理由なのだろう。
混雑率の話ばかりをしていると、悪口を言うなと怒られそうだ。だが、日暮里・舎人ライナーが走っている沿線は、もともと鉄道がまったく走っていなかった空白地帯。だから、住民たちはバスで京浜東北線か東武スカイツリーラインの駅まで行き、乗り継いで都心に向かっていた。
それが2008年に日暮里・舎人ライナーが開業したおかげで、だいぶ楽になったという。少しくらい混んでいたって、電車がないよりはあるほうがよほどマシ。少なくとも、日暮里・舎人ライナーは沿線の人々にとってはなくてはならない交通機関なのである。
日暮里駅から約20分。いよいよ“ナゾの終着駅”「見沼代親水公園」へ
……などと考えているうちに、終点の見沼代親水公園駅に着いた。日暮里駅から20分ちょっとの小旅行。これまでほとんど乗る機会がなかった路線だから、車窓から町を眺めているだけでもそれなりに楽しめた。そして終点の見沼代親水公園駅だ。
「公園」と駅名に入るからには、その名の通りの見沼代親水公園があるのだろう、きっと。だけど、それ以外はほとんど何の情報も持ち合わせていない。町を歩いたことも、ないに等しい。日暮里・舎人ライナーの終着駅、見沼代親水公園駅とは、いったいどんな駅なのか。
さっそく高架の駅を降りる。高架下には、尾久橋通りという呼び名を持つ都道が通っている。駅から少し北側には、高架がぷつりと途切れているのも見える。そして、駅の西側にはちょっとした駅前広場。コミュニティバスがやってくるのが見えたから、地域の拠点であることは間違いなさそうだ。
反対の駅東側は駅前広場こそないものの、すぐ目の前にセブン-イレブンがあった。駅前にコンビニがあるかないかは、その町で暮らすかどうかの判断を分かつ重大問題だ。この点、見沼代親水公園駅は文句なし。
新しくて大きなマンションも建っているし、少し駅から離れたら一戸建ても目立つような徹底的な住宅地。商店街のようなものも、駅前の限られた範囲を歩くばかりでは見当たらない。
かといって、尾久橋通り沿い(つまり日暮里・舎人ライナーの高架沿い)にはチェーン系の飲食店がいくつかあったりして、ロードサイド系の商業ゾーンの雰囲気もある。静かな住宅地と、軸となる道路と鉄道が通る尾久橋通り。実にうまく棲み分けができていて、なかなか良い雰囲気の町ではないかと思う。
住宅街の中を歩いて北に抜けると緑が見えてきた
そんな住宅地の中を歩いて少し北に抜けると、小さな小川が流れる緑地帯があった。これこそが、駅名にもなっている見沼代親水公園なのだろう。高架下(つまり尾久橋通り)を横断し、西から東へとずーっと続く細長い緑地公園。なんと約1700mも続いているというから、たいしたものだ。
そして、この公園よりも少し北には、毛長川という川も流れている。毛長川を渡ってさらに北に歩くと、少しずつ町の雰囲気が変わってくることがわかる。
でっかい店舗を構えている島忠ホームズがやたらと目立つが、それ以外はこれまでの静謐な住宅地とはうってかわって、たくさんトラックが走っているような、どことなく殺伐とした空気感。第二産業道路という、いかにもな名前の大通り沿いには、倉庫や工場のような施設も見える。
急に雰囲気が変わったなと思いきや…
完全無欠な住宅地だと思っていた見沼代親水公園駅も、少し北に歩いて川を渡っただけで、こうも雰囲気が変わってくるものなのか。
実は、このあたりはもう東京都ではなく、埼玉県だ。埼玉県だから殺伐としている、などというつもりはサラサラないが、都県境を跨げばいくらか雰囲気が変わってくるのはとうぜんのこと。
それに、このあたりは埼玉県は埼玉県でも川口市と草加市の境界付近にあたる。京浜東北線や東武スカイツリーライン沿いはベッドタウンとして知られるが、一方では戦後発展した東京近郊の工業地帯という顔も持つ。
見沼代親水公園駅の北、都県境を越えたばかりのこの場所は、ちょうどそうした工業地帯の側面がまだまだ色濃く残っているエリアなのだろう。
今度は南側に向かって歩く。5分もすると…
都県境という実に人為的に引かれた境界線が、思いのほか町の雰囲気を変えるということを実感し、再び見沼代親水公園駅に戻ってきた。こんどは、北ではなく南に向かって歩いてみよう。
ほんの5分ばかり、尾久橋通りを南に歩く。すると、今度はまた変わった雰囲気の町並みが見えてきた。
尾久橋通りとの交差点は金融機関やスナック、古い飲食店や商店がいくつかまとまっている一角だ。金融機関がある交差点は、その地域の古くからの中心地であることが多い。だから、実は見沼代親水公園駅周辺の“中心”は、駅の南のこの場所なのか。
交差点に金融機関を置いて尾久橋通りと交差する道は、赤山街道という。この街道の歴史は古い。
江戸時代の初め頃、関東郡代を務めた伊奈忠治がその拠点として現在の川口市内に赤山陣屋を置いた。赤山街道は、その陣屋と江戸から通じる日光街道を結ぶ道筋なのだ。赤山街道沿いには江戸の昔から小さな市街地が形成されていたのだろう。
そして、伊奈忠治は見沼代親水公園の町そのものにも、深く関わっている。
東京を「世界的大都市」まで押し上げた“一大事業”
伊奈忠治は、関東郡代として関東平野における大事業を行っている。利根川東遷と荒川西遷だ。わかりやすく言えば、それまで江戸湾(東京湾)に注いでいた利根川の流路を大きく東に変えて、そのまま太平洋に流れ出るようにした大事業だ。
これによって、江戸の町や関東平野は水運の利を獲得、同時に水害を抑えることにもつながった。江戸の町、ひいてはいまの東京が世界的大都市になり得た大きな理由のひとつといっていい。
ただ、こうした大事業には副作用もある。流路が移ったことで、それまで利根川や荒川の水を引いていた地域から水が失われてしまった。
そこで、伊奈忠治は現在のさいたま市見沼区一帯に巨大なため池「見沼溜井」を造成する。ここで時代は下って江戸時代の半ば頃。新田開発が奨励されるようになると、見沼溜井はそのまま埋立られて田んぼに生まれ変わってしまう。
これに困ったのは、見沼溜井から水を得ていた地域の人たちだ。彼らは、またも水を失った。そこで整備されたのが、見沼代用水である。見沼代親水公園の中を流れる小川は、見沼代用水東縁にあたる。この代用水によって、いまの足立区北東部の一帯は、長らく田園地帯として続くことになる。
日暮里・舎人ライナーの車窓から見えたものの“正体”
江戸が終わって近代に入っても、戦後まもない時期まで、日暮里・舎人ライナー沿線は田んぼだらけだった。いまでも住宅地の中にはポツポツと田畑が点在しているが、それはそうした時代の名残なのだろう。
そして、戦後の復興から経済成長期。東京の人口は急増し、あっという間にこの一帯も田園地帯から住宅地へと変貌していった。そうして形作られたのが、いまの見沼代親水公園駅周辺の住宅地なのである。
つまり、「見沼代親水公園」という駅名は、江戸時代のはじめごろから数百年かけて続けてきた、関東平野・江戸・東京の人々の暮らしを支えてきた大事業を象徴するものといっていい。
日暮里・舎人ライナーは、そうした歴史の行き着く先に生まれた新路線。ただの混雑路線だなんだ、などといって浮かれて乗ったことが、恥ずかしくなるばかりなのである。
写真=鼠入昌史
(鼠入 昌史)