グラウンドは犬だらけ…サッカー元日本代表・中沢佑二が体験した「アウェーの洗礼」の数々
サッカー元日本代表でJリーグ横浜F・マリノスOBの中沢佑二さんが、読売新聞ポッドキャスト「ピッチサイド 日本サッカーここだけの話」に出演。アジア・チャンピオンズリーグ(ACL)で惜しくも初優勝を逃した横浜Mについて言及し、海外のアウェー環境での戦いの難しさについて衝撃の体験を語った。
ピッチサイド 日本サッカーここだけの話
古巣のアジア準優勝に「ちょっと残念」
横浜MはACL決勝でアルアイン(UAE)と対戦。ホームアンドアウェー方式で開催される初戦のホームゲームは2―1で勝利したが、5月25日(日本時間26日)に行われた第2戦を1―5で落とし、初優勝を逃した。
古巣の結果について中沢さんは「今のマリノスは攻撃的に強いので、そのサッカーがどこまでアジアで通用するかを見てたんですけど、今回はちょっと残念だったかな」とチームをたたえながら、悔しさもにじませた。中沢さんにとってもACLは苦い思い出が強い。2004、05、14年に出場したが、いずれも1次リーグで敗退し、決勝トーナメントには進めなかった。横浜Mが初めて決勝トーナメントに進んだのは20年。その年と22年のベスト16が過去最高だった。
横浜Mは今年から、オーストラリア代表選手としても活躍したキューウェル監督が指揮を執る。中沢さんは「完成されたチームに来た1年目で、(監督として)自分の色を出すのはかなり難しいと思います。まだ試行錯誤してる段階かな」と語る。
監督の交代は、すぐに結果に結びつかないケースも多い。「ポステコグルーもすごく苦労した」。中沢さんが指摘したのは、18年に横浜Mの監督に就任したポステコグルー監督(当時)。横浜Mは伝統的に「守備のチーム」だったが、ポステコグルー監督は攻撃的なチームづくりにかじを切った。「選手たちのメンタリティーから変えなきゃいけなかった。いきなり『攻撃的に』って言われてもさ、みたいなところからスタートした」。その年は最終的にリーグ戦を12位で終えたが、J2自動降格圏までは勝ち点2差という薄氷のシーズンだった。
「選手たちのマインド含めて徐々に変える。ポステコグルーも辛抱強く1年間。サポーターにとっては我慢のときだったと思います」
グラウンドに野放しにされていたのは
ACLはJリーグのクラブチームにとって不慣れな海外での戦いだ。中沢さんがACLに出場した04、05年は「アウェーの洗礼」を受けたという。
番組MCの槙野智章さん
「確か、東南アジア。スコールがドバーッと来て前が見えない。試合も中断しないでそのまま。俺らは前が見えないのに、相手チームはつないでくる。前見えないのよ、痛くて。グラウンドはビシャビシャ。でも、きれいにロングボール蹴られて決められた。『お前らボール見えてたのか!』みたいな」
さらに、当時はJリーグの試合から中2日でACLの試合という場合もあり、日程も選手たちにマイナスに作用したという。
今年の横浜Mは、そういった苦難の歴史を経ての準優勝だ。「今のマリノスは逆転勝ちもしているし、自分たちのサッカーをやりつつ、アウェーでも点が取れる。すごい立派なチームになったイメージがある」とたたえた。
当時はアウェーチームへの露骨なプレッシャーもあったという。「日本代表だと警備がつくけど、(当時の)ACLはつかないですし。(練習の)グラウンドを貸してくれないとか、(ピッチに)くぎが落っこちてるとか、夜に電話かかってくるとか。いっぱいあるから」
似た体験は日本代表でも。ある国際大会で体験した思い出を笑いながら振り返った。「(練習場に)犬をね、野放しにしてるんですよ。グラウンドに着いて『さぁやるぞ』って時に犬だらけ。犬が走り回ってるのよ」
プロフィル
中沢佑二(なかざわ・ゆうじ)
元プロサッカー選手。1978年生まれ。埼玉県立三郷工業技術高校卒業後にブラジルへ単身サッカー留学。現地クラブチームを経て1998年にヴェルディ川崎(現・東京ヴェルディ)に練習生として加入。翌年プロ契約し、Jリーグ新人王。2002年に横浜Mに移籍した。日本代表では、2000年シドニー五輪でベスト8、06年ドイツワールドカップ(W杯)、10年南アフリカW杯に出場。19年に現役引退。埼玉県出身。