北沢豪「ふざけんなラモス!」、浴びせられたプロの洗礼…「憧れの選手」からパスがこない日々
番組MCの槙野さん(左)と読売新聞・川島記者
サッカー元日本代表で日本障がい者サッカー連盟会長の北沢豪さんが、読売新聞ポッドキャストのサッカー応援番組「ピッチサイド 日本サッカーここだけの話」に出演した。サッカー選手・北沢豪を育てた東京・町田について。そして読売サッカークラブ(現・東京ヴェルディ)で経験したプロの洗礼とは。今だから明かせるエピソードを披露した。
■町田に生まれていなかったら…
東京都町田市出身。メキシコ五輪で男子サッカー代表が銅メダルを獲得した1968年生まれ。幼少期は野球少年だったという。
「最初は野球から。幼稚園ぐらいから父親の影響で。ジャイアンツファンでしたよ。僕のアイドルは王貞治ですから。釜本邦茂じゃないの。だから国立競技場に行くより、後楽園球場に行くことの方が多かった」。
サッカーを始めたのは小学生になってから。「僕らの時代、サッカーが盛んなところは限られていて。サッカーが盛んだった町田市に生まれていなかったらサッカーをやっていなかった」。
当時から町田市では地域スポーツが盛んだった。「農家が畑をグラウンドにして協力してくれていた。地域で子どもたちを育てるという、いまでも町田にはその精神が息づいている」。北沢さんが所属していた少年サッカークラブ・FC町田が、今年J1初昇格を果たしたFC町田ゼルビアにつながっている。
■モチベーションが高い場所だった
中学校からは読売サッカークラブのジュニアユースでプレーした。
「最高でしたね。同じグランドに与那城ジョージとかラモス瑠偉、都並敏史、戸塚哲也とかいましたから。自分がサッカー選手になりたいというロールモデルが目の前にいて、モチベーションを高めてくれる高い場所だった」。
Jリーグが生まれるずっと前。日本リーグ時代の思い出だ。
「当時からすごかったね。我々の練習にも(トップチームの選手が)たまに来てくれて、一緒にボール回しに入って刺激を与えてくれてるわけ。トップ選手しか入れないクラブハウスに入れてくれたり、一緒にご飯を食べさせてもらったり。『トップ選手』っていうのを中学生に教えてくれた。たまに(練習場の)よみうりランドから駅まで車に乗せてくれて、それがベンツやBMWで、かっこいいじゃない」
さらに、弱肉強食のプロの世界も垣間見たという。
「給料を手渡し。だから分厚さが分かるわけよ、見てて。あえてやってたんじゃないかなって。だから頑張ればお金になっていくっていう。すごいでしょ!」
当時、読売サッカークラブのトップチームはグループ練習しかなかった。個人練習は各自で行っていたという。北沢さんが目撃した「給料袋の薄かった」選手たちは、個人練習を陰で重ねていた。「そういうの見ていると、『努力ってかっこいいな』みたいな。中学の生意気な時期にそれを見て覚えていった。『必死』がかっこいいなって」
■パスをくれない「憧れの選手」
高校卒業後は本田技研工業サッカー部(現・Honda FC)に入部。入部当初はベンチ外だったが、途中出場、スタメン獲得と徐々に階段を上がり、4年目に日本リーグの得点王に輝いた。翌年、憧れだった読売サッカークラブに移籍した。
「チャレンジできる環境に身を置かなきゃなと思って。読売サッカークラブの雰囲気、練習場の雰囲気、人を成長させてくれる中に飛び込むのが一番だと思った。憧れよ!」
だが当時の読売サッカークラブはスターぞろい。「冷静になって11人のメンバーを自分で(イメージして)つくったの。俺、入んないんだよ。あらゆるシミュレーションするけど、入ってないんだよ」。
予想通り移籍後半年は途中出場が続いた。さらに、練習ではパスすら回ってこなかった。
■「やっとチームメートに」
「ラモスさんなんか俺にパス出してくれないよ。戸塚さん一切出してくれないよ。俺に活躍されたらポジションが取られるから、パスくれないのよ、全然」
北沢さんが憧れた背番号14番はトータルフットボールで世界を席巻した元オランダ代表の「フライング・ダッチマン(空飛ぶオランダ人)」ヨハン・クライフではない。日本リーグ時代の読売サッカークラブの中心にいた戸塚さんだった。だが、その憧れた選手はパスをくれない。
「中学の頃に見ていた厳しさってのはこういうことなんだなって。サッカー哲学を持ってない限り、潰れるなと思った。今のプレーを何でやったの、どうして今この判断したのって言われる。答えられないと『帰れ!』。自分はこういう考え方があったんだってぶつけていかないと、やり合わないと仲間にしてくれない。でも、当たり前のことなんだけどね」
そのような雰囲気の読売サッカークラブだったが、北沢さんは「楽しめた」という。「最高でしたよ。パスが来ないんだよ。海外(チームの雰囲気)だと思ったもんね」
当然、このような思いも抱きながら。「『ふざけんなラモスっ!』『何なの?この協調性のなさは!』とかって思ったもん」
移籍半年後のJSL(日本サッカーリーグ)カップ決勝の延長戦で、決勝ゴールを決めた。帰りの新幹線でチームのGK菊池新吉さんが近づいてきて「やっとチームメートになれたね、キーちゃん」と声をかけられた。自分がチームに何かしない限り、チームの仲間にはなれない。今も忘れられない強烈な言葉だった。