念願の定席「天満天神繁昌亭」誕生 赤い人力車で〝お練り〟 「上方落語の魂」に 話の肖像画 落語家・桂文枝<22>
天満天神繁昌亭4周年記念で、鏡開きをする桂三枝さん(左から2人目、当時)ら=平成22年、大阪市北区(安元雄太撮影)
《上方(かみがた)落語協会会長としての「次の仕事」は落語の定席(じょうせき)をつくること。漫才が人気の上方では落語を中心にして毎日開かれる寄席(劇場)が60年以上も絶えて無かったからである》
「落語を聴(き)いてみたいけど、どこへ行ったら聴けるの?」といった声を当時、よく聞いていました。会長になった僕は「とにかくやってみよう」と決意し、動き始めることにしたのですが、劇場をつくるのはむろん簡単なことではありません。とにかく協会にはおカネがありませんからねぇ。前回、話したようにイザとなれば、僕の資産を処分してでも…と考えていましたけど、もしもそんなやり方をしたら後々、うまくいかないことは分かり切っています。
だから僕は、市民の方々にご協力をお願いしようと考えました。大阪城の再建天守閣も市民の寄付でできた。大阪人は決してケチやないんです。必要なもんにはおカネを出してくれるハズやと。
そして、企業や市民からおカネを出していただく方法として寄席につるす提灯(ちょうちん)に名前を入れるアイデアが生まれる。
この方法を思いついたのは以前、米ニューヨークに行ったとき、自由の女神像の下に(寄付をした)多くの方々の名前があるのを見ていたからです。これが大当たり。あまりに多くの方々から賛同していただいて、提灯を置く場所がなくなったくらい。字を書く提灯屋さんも倒れてしまい、一部が素人(しろうと)っぽい文字になってしまったハプニングもありましたけど(苦笑)。
《劇場を建てる場所は、天満の天神さんで知られる「大阪天満宮」(大阪市北区)が駐車場として使っている土地を無償で貸してもらえることに。その周辺は大正時代、吉本興業創業時代の寄席があった場所だった》
よい場所がなかなか見つからず、困り果てているとき〝日本一長い商店街〟としてしられる「天神橋筋(てんじんばしすじ)商店連合会」の会長さんから耳よりな話を聞いたのです。「天満宮さんが土地を貸してもよい。そこは戦前から『天満八軒』と呼ばれる寄席があった場所」というのです。もってこいの場所でした。
ところが、建設工事がなかなか進まない。僕は心配になって何度も現場へ足を運んだのですが、どうやら「下」に何か埋まっていたのが理由らしい。工事が遅れたことで建設費は当初予定の約1億円から膨らんで結局、約2億4千万円かかりましたが、大阪府からは補助金も出ることになったし、すべてを寄付金など〝自前〟でまかなうことができました。
《「天満天神繁昌(てんまてんじんはんじょう)亭」と名付けられた落語定席は平成18年8月に竣工(しゅんこう)した。敷地面積約600平方メートルに3階建て、客席数216。開場の9月15日には、会長の三枝さん(当時)は「赤い人力車」に先代の桂春団治を乗せて梶棒(かじぼう)を握った》
「赤い人力車」は初代の春団治(※1878~1934年。絶大な人気を誇った伝説の爆笑王。破天荒な生き方で歌や芝居の題材になった)が乗って寄席を掛け持ちしてまわったといわれているものを再現してつくってもらいました。僕が車夫役になって、天神橋筋商店街を〝お練り〟したんです。
繁昌亭を(単なる劇場にとどまらず)「上方落語の魂」が込められた場所にしたかった。だから赤い人力車は今もロビーに展示してあるし、舞台の上に飾ってある「楽」の字の額は(桂)米朝(べいちょう)師匠に書いてもらった。「繁昌亭」の名前は、(六代目笑福亭)松鶴(しょかく)師匠の会長時代、僕が知人に頼まれて実現した(不定期の寄席)「千里繁昌亭」から採(と)りました。
《繁昌亭の観客動員数は昨年1月200万人を超える》(聞き手 喜多由浩)