できないヤツほど自信過剰なのはなぜ?誰しもが把握できない「自己認識の限界」
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未熟な人ほど自分を過大評価してしまうという「ダニング=クルーガー効果」。メタ認知能力の欠如とも言えるのだが、しかしそれはなにも未熟な人だけに限った話ではないという。人間の正確な自己認識の限界に迫る。本稿は、橋本努『「人生の地図」のつくり方――悔いなく賢く生きるための38の方法』(筑摩書房)の一部を抜粋・編集したものです。
できない者ほど自己評価が高い
ダニング=グルーガー効果
「無知は罪なり」という言葉がある。ソクラテスが言ったとされるが、どうも怪しい。
言葉の起源をたどってみると、ディオゲネス・ラエルティオスが『ギリシア哲学者列伝』のなかで、ソクラテスが無知は悪いと言った、と紹介されている。これがキリスト教文化のなかで解釈され、無知は罪なりとなったようである。(1:日本では安藤州一が1913年に、クセノフォン著『ソクラテスの教訓』の訳者注で「無知は罪悪」という言葉を用いた)
日本人の感覚では、無知は恥ずかしいけれども、罪ではない。無知が悪いものだとすれば、それは知ったかぶりをしたり、あるいはナルシスト的な知に陥ったりして、正確な知をもたない場合だろう。例えば私たちは、自己愛をもっていて、自分の容姿や能力を過大に評価してしまうことがある。それが社会で通用しないこともしばしば起きる。私たちはどのようにすれば、こうした過剰な自己愛を避けて、的確な自己認識をもつことができるだろうか。
D・ダニングとJ・クルーガーは、1999年に、「未熟かつ無知──自分の無能さはいかにして過大な自己評価をもたらすか」という有名な論文を発表した。(2:Kruger and Dunning(1999))
この論文によると、中学校や高校で英語のテストをしたり、ある集団でクイズをしたりすると、点数の低い人たちのなかには、自分の点数が平均よりも高いと思っている人たちが意外と多いことが分かった。点数の低い人ほど、自分はもっと順位が上なのではないかと考える傾向にあるという。
未熟な人は、自分の能力を過大評価してしまう。これを「ダニング=クルーガー効果」という。このような傾向は、いったいなぜ生じるのか。ダニングとクルーガーによれば、未熟な人は、「メタ認知能力」が低いのだという。能力の低い人は、たんに能力が低いだけでなく、自分の能力がどの程度であるかについて把握する能力も低い。自分の能力についてのメタ認知能力が低いので、自分を的確に把握することができないというわけである。
自信過剰になることは
時にはメリットをもたらす
古代ギリシアの哲学者ソクラテスは、「無知の知」の大切さを語った。私たちはさまざまなことについて無知であるけれども、自分の無知を自覚することはできる。そのような無知についての知をもつことが、人間を賢い存在にする。これがソクラテスの教えである。ところが未熟な人は、ソクラテスのいう「無知の知」をもつことができない。未熟な人は、自分が無知であることを知らず、自分はいろいろなことを知っていると思い込んでしまう。
ダニングとクルーガーは、このような「無知についての無知」を、さまざまなデータから実証した。無知な人は、自分のことを分析する能力が低いので自信過剰になり、結果として仕事がうまくいかない、というのである。
けれども、自信過剰になることは、そんなに悪いことなのか。D・ダニングは後に『自己洞察力』(2005年)で、自分の能力を楽観視したり過大な自己評価を抱いたりすることには、ときにはメリットがあると指摘している。(3:Dunning(2005:164-165))自分の能力に自信がある人は、挑戦的な仕事に長く取り組むことができるので、よりよい成果を上げることができる。また、自分の身体能力に自信がある人は、いっそうスタミナがあり、負けたときにもくじけず努力する。楽観的な人は、より健康的で免疫系が強く、自分の健康にプラスとなる行動をとる。このように、自分の能力に対して楽観的で自信のある人は、生きる力をもっている。この生きる力が、最高の成果へと導いてくれることがあるという。
自信過剰になると、一方では努力を怠り、成果を得ることができなくなる。しかし的確な自己認識を持てば人生がうまくいくのかというと、そうでもない。適度な自信過剰は、成果を上げたいという意欲をもたらしてくれる。また、成果を上げるために必要なスタミナや健康、粘り強さなどをもたらしてくれるだろう。
かつてソクラテスは「無知の知」の賢さについて語ったが、ダニングとクルーガーは、無能な人は自分が無能であることを自覚すらできないという「無知の無知」について語った。
けれども、「無知の知」をもたない人は、幸いである。自分がいかに無知であるかを知らず、自分の能力を信じることができるからである。自分の能力を信じることができれば、大きな成果を上げることができるだろう。
有能な人は、自分がどれだけ
有能なのか知らなかった
しかし、ダニングとクルーガーの研究成果については、別の解釈をすることもできる。以下では、2つの可能性を検討してみたい。
ダニングとクルーガーは、未熟で能力の劣る人ほど、自分を的確に把握する力(すなわちメタ認知能力)が低いと考えた。しかし、本当にそうなのか。
これはすでに、ダニングとクルーガーの実験でも実証されているのであるが、テストやクイズの点数が低い人は、自分の点数がクラスのなかで何番目くらいなのかについて、実際よりも上位に評価するものの、自分の点数が何点であるかについては、的確に把握する傾向にあるという。点数の低い人は、自分の順位については自信過剰になるものの、自分の点数については的確に評価する。これはいったい、どういうことだろうか。
ダニングとクルーガーの仮説を、日本で実証した研究がある。(4:西村(2018))被験者となった高校生たちは、英語のテストを受ける際に、自分の順位と点数を予想するように求められた。すると、下から4分の1の人たちは、自分の順位がもっと上であると予想する一方で、自分の点数については的確に予測した。ならば、上から4分の1の人たちは、自分の順位と点数を的確に予測したのかと言えば、そうではなかった。英語力がある人たちは、自分の順位と点数がもっと低いと予測したのである。
英語力のある人たちはなぜ、自分の順位と点数を低く予想したのだろうか。彼/彼女らは、本当は自分の順位や点数を的確に把握できるのだけれども、謙虚であったため、自分の順位と得点を低く予測したのだろうか。
ある研究によると、テストで自分の順位や点数を予想させる際に、それが的確だったらお金がもらえるようにしても、結果はあまり変わらなかったという。とすれば、能力の高い人たちは、謙虚だから自分の順位と点数を低く見積もるのではなく、認知的なバイアスがかかっていることになる。能力の高い人たちも、自己認知力には限界があるようだ。
人間は能力に関係なく
ふだんは自信過剰に陥りがち
この実験結果で興味深いのは、能力の低い人たちのほうが、能力の高い人たちよりも、自分の点数を的確に予測していることである。つまり、能力の低い人たちのほうが、自分をよく理解している。ここから得られる教訓は、先に得られた教訓、すなわち「無能な人は、自分が無能であることを自覚すらできない」とは正反対である。すなわち、「有能な人は、自分が有能であることを自覚できない」ということである。これは「知の無知」と言えるだろう。
ダニングとクルーガーの研究をめぐって、もう一つ別の解釈を引き出すことができる。バーソンとラリックとクレイマンは、2006年の論文で、興味深い教訓を引き出した。(5:Burson,Larrick and Klayman(2006))でこの論文によると、能力の高い人であれ低い人であれ、自分にとって中程度の難易度のテストを受けた場合には、自分の順位を的確に予測することが難しく、実際よりも高く予想していたという。つまり私たちは、中くらいの難易度のテストについては、能力の差に関係なく、自信過剰に陥ってしまうようである。私たちは、能力があれば無知を克服できるわけではない。
『「人生の地図」のつくり方――悔いなく賢く生きるための38の方法』 (筑摩書房) 橋本努 著
私たちは、たとえ能力に恵まれていても、自分がどれだけ無知であるかを知ることはできず、「無知の知」の賢さに到達することができない。これは「能力の無知」と呼べるかもしれない。
ダニング=クルーガー効果とは、無能な人は自分が無能であることを自覚できないという、「無知の無知」のことを指していた。しかし、その後の諸実験の成果を踏まえると、この効果の含意は、修正されなければならない。有能な人も、自分が有能であることを正確に理解できない(「知の無知」)。能力の高い人も低い人も、自分の能力について正確に把握する能力がない(「能力の無知」)。私たちは、知や能力の差に関係なく、自分を的確に把握することができないのである。