TM NETWORKが作り上げた「Jポップ」…小室哲哉「売れていくっていうのはこういう感じなのか」
「活動終了」前最後のライブ(1994年、東京ドーム)
小室哲哉、宇都宮隆、木根尚登による音楽ユニット、TM NETWORKがデビュー40周年を迎えた。TMがポピュラー音楽史に果たした役割について、リーダーの小室に聞いた。(聞き手・読売新聞文化部 鶴田裕介)
■歌側も音側も…カテゴリーの真ん中に
――TMの特徴の一つは、シンセサイザーで作り上げる先進的なサウンドと、宇都宮さんの歌う、一般大衆にもなじみやすいメロディーの同居だと思います。先進性と大衆性のバランスをどう意識していましたか。
小室哲哉 そこが折り合いのつくポジションだったんです。歌謡曲と、ロックやダンスミュージックといったカテゴリーの真ん中に「Jポップ」という言葉が、ひとくくりにするためにできたのだと思います。Jポップとして存在するためには、両方の面を持っていないといけなかった。歌側だけだと「新しいよね」と言われず、音側だけだとカテゴリーから外れちゃう。うまくミックスしないと、Jポップにはなりづらかったと思います。
少し遡りますが、おそらくBOOWYが、一般の家庭に入っていく意味での両面を出せていたんです。ギターがロックで、歌のメロディーは、もしかしたら歌謡曲にも近い感じがする。ちょっとうらやましいな、と思っていました。
僕らの場合、鍵盤楽器なので、仮にピアノと歌だと、フォークになってしまうかもしれなかったし、先進性がある、みたいにはならない。かといってあまりシンセサイザーを前面に持ってきてしまうと、今度はイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)が80年代初期にやっていたようなものになってしまう。
80年代の日本の音楽は、本当に混沌としていたと思いますね。混沌としていたところに、(アニメや映画の主題歌など)タイアップが助けてくれました。認知が広がるのを助けてくれ、90年代に向かって広がっていったと思います。その後は、カラオケとレンタルCD、あとCDラジカセの普及など、どんどん助けてくれるサポーターが増え、Jポップが盤石の体制になっていきました。80年代はそこまで行っていなかったので、大変でした。
■一人称より、俯瞰から見た歌詞
――84年のデビュー当時はJポップという言葉は使われていませんでしたが、その頃から無意識にJポップの形を追い求めたのがTMだったと総括できるのでしょうか。
小室 そうですね。目指してたところはそこだったと思います。売れたいけれど、迎合したくない。売れたいというのは、人気を得たいというよりも、やりたいことがあり、そこに行き着くためには売れないといけない、という思いでした。
――売れないと「CAROL」が作れない、と。
小室 そうです。売れないと、(ステージの)ライト1つ増やせません。
――歌詞についてもお尋ねします。「STILL LOVE HER(失われた風景)」の「二階建てのバスが追い越してゆく」という一節に象徴されるように、TMの歌詞は、外部の作詞家の力も借りながら、映像が見えるようなものが多かったです。90年代、小室さんがプロデューサー業で活躍されるようになると、「CAN YOU CELEBRATE?」(安室奈美恵)のように個人の心情に寄り添う歌詞が増えました。TM時代とその後で、歌詞に対する向き合い方が変わったのでしょうか。
小室 宇都宮君が、一人称で歌うのが苦手だったというのもあります。僕も一人称は合わないと思いましたし、あまり得意ではありませんでした。ちょっと俯瞰から見た歌詞を書くのが好きだったんです。たまに心情を吐露するような曲を「宇都宮君、歌ってくれるかな」と思いながら書いたこともありましたね。
でもそのうち、口語体、しゃべり言葉を歌詞に入れたいと思うようになっていきました。「別に『詩』じゃなくてもいいんじゃないか」と自分なりに見つけて、90年代以降は男女のやりとりなり、独り言なり、文章というよりはしゃべる感じの文体が増えました。
きっかけがあるわけではありません。ないんだけれど、なんで歌詞を小説のように原稿用紙にはめなきゃいけないんだ、音楽なのに、という疑問があったんだと思います。ほとんどの人が話すとき、アタマから正確に「私は」「僕は」と言うわけじゃない。「あのさ」とか「だから」とか、何か付けたくなりがちなのに、歌はなんでだめなんだろう、と。
職業作詞家の方は紙にペンで詞を書くと思うんですが、僕らはメロディーを作る時、歌いながら、言葉も思い浮かべながら作っていました。(職業作詞家と、作曲家が作る歌詞は)制作方法が違うんだと思います。もしかしたら、松本隆さんはドラマーだったので、リズムを取って(歌詞を)考えていらっしゃったかもしれないですけれど。
英語の使い方も、僕らの頃は、ちゃんとした英語を話す方から「文法上間違ってる」と指摘されることがよくありました。「ここは動詞じゃないといけない」「名詞じゃダメ」と批判されましたね。でも、ネイティブの人でも文法的に自由に話したりしていますよね。メロディーと音を大切にしたかったから、どうしても言葉がはまらなかったら、省略してもいいじゃん、って思う時もたくさんありました。
■終了宣言「マンネリ化しちゃうかな、と」
――1994年、TMN(90年に改名)は突然「終了」を宣言しました。当時は「10年前のデビュー時から想定していた」といった説明がなされましたが、実際のところ、活動終了の理由は何だったのでしょうか。
小室 「CAROL」の時点で(活動終了は)「もうちょっと後かな」と思っていました。デビュー前から含めると10年以上作り続けていると、3人からの視界だけだと、やっぱり飽きてくる。それは僕たちがというよりは、付いてきてくれるファンにとってもマンネリ化しちゃうかな、と。僕はプロデュースの仕事があり、2人もソロでやりたいことがありました。
何よりも、2人とも驚かせることが嫌いじゃない人たち。何をやったらびっくりしてくれるかな、でも解散はないよね、休止も変かな、と結構考えたと思います。一応「地球に来た地球外生物で、潜伏して調査している」といったコンセプトでやっていたので、1回終了、と。YMOが「散開」したのが83年で、僕たちがデビューしたのが84年だったので、そういうことを思い出したりもして。
さっきお話しした、タイアップのサポートの力が強大になってきたというのもありました。世の音楽はタイアップありきで、それが大きいとほぼヒットするという図式ができていた時代でした。迎合しすぎて、常に「タイアップがないか」と考えるようになるのは本末転倒かなと思っていたんだと思います。
――3人の中では、数年後の復活はあらかじめ考えていたのですか。
小室 はい、そうですね。3人の中では、違う形ですぐやってもいいよね、って。バンドによっては、人間性の問題でお別れする方たちも多いですが、僕たちは仲が悪くなったわけじゃないので。
――TMNの終了前後から、trfや安室奈美恵さんらをプロデュースし、いわゆる「小室サウンド」が世を席巻しました。その前史としてのTMというグループは、小室さんにとってどのような位置づけだったのでしょうか。
小室 (宇都宮さんと木根さん)2人に感謝します。瞬発的に出たアイデアや考えを「やってみたいんだけど」と言えてしまう2人。そんなフィールドを与えてもらったことで、基礎的な技術やレコーディング、どうやったら世の中に広がっていくかといったことを、10年で全部経験させてもらいました。「リアルタイムで売れていくっていうのはこういう感じなのか」ということが経験できたのも、今から思えばよかったと思うんです。ベスト10に入るまでに3年はかかりましたからね。「なんで10位に入るのがこんなに大変なんだ」と思っていました。
――TMの音楽がJ‐POP史、あるいは世界のポピュラー音楽史に果たした役割は何だったと思いますか。
小室 TMはテクノロジーの進化を実験台として使ってきたと思いますし、使われてきたと思います。CDチャートができたらCDチャートに向けて出そうとしましたし、MDが出た時はMDのCMに曲を作りました。iTunesが出たらiTunesで何かしよう、とか。メディアやツールの進化、変化の節目に存在していました。活動初期の頃は海外に渡るのでさえ大変だったのに、今やあっという間に(作品が)世界に行ってしまう。長く活動し、大会場ですごいライブをやっている方はたくさんいらっしゃいますが、40年前にデビューして、10代の子が日常で使っているツールにも入り込めるグループは稀有なのかな、と思います。
■デビュー40周年ツアー最終公演
TM NETWORKは5月18、19日、横浜市の「Kアリーナ横浜」でデビュー40周年ツアー最終公演を行う。
問い合わせは、ディスクガレージ(https://www.diskgarage.com/artist/detail/no001269)へ。