遺体が漂着する対馬、身元が判明しない場合がほとんど…済州島4・3事件の犠牲者も
「漂流者之霊位」と刻んだ墓前に立つ宮川住職
朝鮮半島に近い対馬には、古くから、海難事故などに遭った韓国人とみられる遺体が漂流・漂着することがある。遺体数をまとめた統計はないが、身元が判明しない場合がほとんどだ。手厚く弔おうと、対馬には追悼碑や墓が立ち、供養も行われている。(島居義人)
漂流・漂着した遺体は通常、海上保安部や警察が事件性などを調べ、身元が判明すれば引き取り手に渡す。ただ、対馬沖に漂流したり、海岸に漂着したりする遺体には、身元が判明しない場合も少なくないという。
服のタグに書かれたハングルや潮の流れから韓国方面とみられる遺体もあり、最近では昨年11月に同様の遺体が漂流しているのが見つかった。
こうした遺体について、長崎県対馬市の前身の旧6町時代は、漂着した海岸の町が火葬し、遺骨を寺院に預ける形で安置してきた。現在は市が引き取り、市の納骨堂に納めている。
対馬市の男性職員(50歳代)は「旧町時代、福祉課に7年間在籍したが、20体以上を取り扱った。定置網に入っていたこともあった」と振り返る。
異国の地で「無縁仏」となった人を弔おうと、対馬には追悼碑や墓が建つ。
島内では1992年、官民などで浄財を集め、韓国の山並みを遠望する対馬市峰町青海(おうみ)に「対馬海峡遭難者追悼之碑」を建てた。碑には日本語とハングルで、「海の安全を願う対馬島民は海峡を共有する友として、不幸な霊を慰めるためこの地に追悼の碑を建立する」などと刻まれている。
数十体の遺骨を預かっていたという同市厳原町中村の太平寺は93年、海が見えるようにと、高台に「漂流者之霊位」と刻んだ墓を建てた。毎年、盆に墓前で供養しているという。
日韓の国交正常化から来年で60年。難しい問題も抱える両国だが、宮川長己住職(81)は「亡くなれば日本人、韓国人は関係ない。供養は人として当然のことであり、これからも続ける」と話す。
■歴史上の事件供養塔も
対馬には、歴史上の事件・事故で犠牲になった朝鮮半島の人々を弔う碑や塔もある。
最北端の上対馬町鰐浦(わにうら)には、江戸時代に起きた海難事故の殉難の碑が、日韓の歴史学者らが中心となって1991年に建てられた。犠牲になったのは、朝鮮と対馬を行き来した朝鮮の外交使節団「訳官使」ら112人。1703年(元禄16年)に対馬に向かう途中で遭難したとされる。
上県町(かみあがたまち)佐護(さご)の湊地区の海岸には、韓国・済州島で1948年に起きた「済州島4・3事件」で犠牲になった同島民の遺体が多数漂着したといわれる。米軍軍政下の選挙に反対する島民らが軍・警察に弾圧された事件。対馬に漂着した遺体は手厚く葬られたとされ、2007年には供養塔が建立された。