道灌が攻め寄せた山深い天然の要害「熊倉城」 当時の緊迫、堀や土塁に(前編) 山城ガールむつみ 埼玉のお城出陣のススメ!
熊倉城入口。すぐ脇には駐車場がある=秩父市
熊倉城は、埼玉県秩父市荒川日野の城山(じょうやま)に築かれた山城です。登山で有名な熊倉山に連なる峰に築かれていることから「熊倉城」と呼ばれています。中世には「日野城」「日野要害」と呼ばれていたため、現在も別名「日野城」とも呼ばれています。熊倉城は、「長尾景春の乱」という戦国時代に関東を揺るがした歴史的大事件の舞台になった城です。この乱を起こした長尾景春が追い込まれ、籠もったのがこの熊倉城で、それを攻め落としたのが太田道灌です。標高648メートルの秩父の山深くに築かれた熊倉城には、関東動乱を物語るものすごい歴史ロマンが埋もれているのです。
「長尾景春の乱」は、景春が主家である関東管領上杉氏に対して起こした反乱です。このときの関東は、古河公方と関東管領上杉氏が、関東を二分して戦った30年戦争「享徳の乱」のまっただ中でした。その享徳の乱の最中に、景春は主家に対して反旗を翻し、鉢形城(寄居町)を築いて拠点としました。そして、文明9(1477)年に上杉氏の本拠五十子陣(本庄市)を襲撃。これによって、上杉氏は五十子陣を放棄し、上野国に逃げることとなりました。
関東管領上杉氏家臣団の中心的存在であった景春がこのような乱を起こすと、関東でさらなる混乱が巻き起こります。景春は武蔵、相模などで賛同する味方を増やし、勢力を拡大していきます。それらが各地で蜂起、これによって動乱は関東一円に広がりました。
各地で起きた景春方の反乱の鎮圧に活躍したのが太田道灌です。道灌は武蔵、相模などでの戦いを経て、文明10(1478)年、ついに景春の籠もる鉢形城に攻め寄せました。攻撃を受けた景春は秩父へ逃げ込みました。このとき、秩父に逃げ込んだ景春が築いたのが熊倉城です。秩父の山奥、まさに天然の要害である熊倉城が、劣勢を強いられていた景春が形勢を立て直すための新たな拠点となったのです。景春は熊倉城を拠点に戦いを繰り広げました。しかし、起死回生をかけた秩父での戦いも、道灌に鎮圧され、さらに追い込まれます。そして、ついに文明12(1480)年6月24日、道灌が熊倉城へ攻め寄せました。籠城し戦うも、熊倉城は陥落。景春は城を出て落ちていきました。周辺には、この戦いを物語るたくさんの伝承が残されています。
熊倉城には、当時の緊迫した様子を示す痕跡が残っています。防御性を高めるため、土を掘って敵の進軍を阻んだ「空堀」、掘った土を盛って土の壁にした「土塁」など、城の遺構を見ることができ、これらの今に残る城の姿から、当時の緊迫した状況を肌で感じることができます。
また、熊倉城はおもに本丸、二の丸、三の丸の3つの平場で構成されていますが、地面の削平が全体的に甘いです。このことから、熊倉城が籠城のための臨時の城であり、十分な造作ができなかったとも想像できます。ますます当時の臨場感を感じ、この城に逃げ込んだ景春の心情に思いをはせずにいられません。さらに、熊倉城に続く尾根道を歩くと、やはりそこにも敵に攻め込ませないように尾根を切った「堀切」があり、熊倉城に攻め込んだ道灌の軍勢の足音が聞こえるようです。
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景春が秩父に逃げ込んだのは、秩父には景春に味方する親戚がいたことが大きな理由だとされています。山深い秩父の地に眠る歴史に現地でぜひ思いをはせてみてください。
武州日野駅から4キロ(徒歩1時間15分)、白久駅から3・5キロ(徒歩1時間)です。熊倉城入口には駐車場もあります。ただし、熊や虫も出ますので季節には気をつけてくださいね。
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山城ガールむつみ
歴史&山城ナビゲーター。歴史コンサルタント。歴×トキ(レキトキ)代表、三浦一族研究会副会長、一般社団法人城組副理事、千葉城郭保存活用会副代表、千葉県匝瑳市シティ・アンバサダーなど。
歴史やお城をテーマにしたイベントやツアー、講座を全国各地で多数手がける。県内でも歴史と城を使った町おこし、地域活性化の取り組みや、各地の歴史発信のための御城印発行プロデュースなどを行っている。(https://www.rekitoki.com/)