祝日本代表! でも何かヘンだよ、五輪サッカー
男子五輪サッカーの出場選手制限
サッカーのU-23アジアカップ準決勝で23歳以下の日本代表がイラクを破って2位以内を確定。パリ五輪への出場権を獲得した。そして決勝では、ウズベキスタンを1-0で破って、見事優勝を果たした。
男子サッカーのパリ五輪の初戦は、開会式より前の7月24日。日本代表の大岩剛監督には、これから招集メンバーの絞り込みという難しい仕事が待っている。アジアカップには23人を招集できたが、五輪本大会では18人に絞り込まなくてはならないのだ。
たとえばスペインリーグで活躍する久保建英(レアル・ソシエダード)など、五輪世代の選手でもアジアカップに招集できなかった選手は多い。W杯を目指すフル代表と違って、23歳以下の五輪代表の場合には日本側に「招集権」がないので、海外組を招集するには所属クラブの許可が必要なのだ。
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五輪が行われる7月から8月初旬は、各国リーグ開幕直前の大事な時期。重要な選手であればあるほど、クラブ側はそう簡単に五輪出場を認めてくれない。
五輪の男子サッカーは基本的には23歳以下の選手の戦いなのだが、これに年齢制限のない3人を加えることもできる。いわゆる「オーバーエイジ」だ。
オーバーエイジを加えれば戦力アップにつながることは間違いないが、これまで一緒に戦ってきた若手選手のグループに新しく年齢が上の顔ぶれが加われば、チームのバランスが崩れるというリスクもある。監督にとっては頭の悩ませどころだ。五輪代表監督は、こうした様々な制約がある中で招集メンバーを決めなければならない。しかも、W杯では26人、U-20W杯でも23人を登録できるのに、五輪の場合はわずか18人。それで、中2日での連戦という強行日程をこなさなければいけないのだ。
制限が生まれた起源
ところで、五輪では女子サッカーも行われる。日本女子代表(なでしこジャパン)は今年2月の最終予選で北朝鮮を倒して、すでに出場権を獲得しているが、女子はW杯と同じ年齢制限のないフル代表が参加する。
五輪ではサッカー以外にもバスケットボールやバレーボール、ハンドボールなど各種の団体スポーツが行われるが、年齢制限があるのは男子サッカーだけだ。
男子サッカーの場合、どうして「23歳以下+オーバーエイジ」という複雑な規則ができたのか? 実は、これは国際オリンピック委員会(IOC)と国際サッカー連盟(FIFA)の間の長い確執と妥協の産物だったのだ。
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五輪は、かつてはアマチュアだけの大会で、「プロ選手」は排除されていた。
階級社会である欧州では「アマチュア」というのは、裕福な貴族やブルジョワジーたちのこと。経済的な余裕がある彼らにとってスポーツはあくまでも余暇の一環であり、金銭的な心配なしでスポーツに打ち込むことができた。
しかし、労働者階級の選手は、試合や練習のために仕事を休むと収入が減ってしまう。そこで、所属クラブが有力選手に対して休業補償として金銭を渡した。それがプロ制度の始まりだった。
それに対して、上流階級は労働者階級のプロ選手を排除するために「アマチュアリズム」を掲げたのだが、その「アマチュアリズム」の頂点が五輪大会だったというわけだ。
アマチュアとプロ
サッカーの場合、19世紀のうちから労働者階級の間で人気が高まったため、早くからプロ選手が存在したし、形式的にはアマチュアでも裏で金銭を受け取るような選手も多かった。そのため、五輪ではサッカーを巡って“プロ疑惑”がたびたび起こり、そのため1932年のロサンゼルス大会ではサッカーは行われなかった。
1964年の東京五輪でもサッカーを巡って“プロ疑惑”が起こった。
プロ契約前の若手選手で構成されたイタリア代表に同国1部リーグ「セリエA」のスター選手が含まれていたのだ。ACミランのジャンニ・リヴェラとインテルのサンドロ・マッツォーラ。いずれも、後にイタリアを代表するスーパースターとなる選手だった。このため、イタリア代表は東京五輪を棄権した。
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第2次世界大戦後から1970年代まで、五輪サッカーのメダルは東欧諸国にほぼ独占されていた。
なぜなら、東欧の社会主義諸国にはプロ制度がなく、選手たちは名目的には労働者や軍人、学生だったから五輪にも参加できたのだ。だが、彼らは実際には国家から金銭的な収入や住宅、海外旅行の権利など様々な特権が与えられており、W杯では西欧諸国のプロ選手と互角に戦っていた。
1968年のメキシコ五輪では杉山隆一や釜本邦茂を擁する日本代表が、そうした東欧諸国のメダル独占に風穴を開けて銅メダルを獲得したが、準決勝では優勝したハンガリーに0対5と大敗を喫している。
日本代表の選手たちは、たとえば杉山は三菱重工、釜本はヤンマーディーゼルといったようにいずれも大企業の実業団チームに所属していた。彼らは実際に社業にも携わってはいたが、試合や練習で出社しなくても給料を貰えたので西欧諸国の本当のアマチュアとは明らかに立場が違っていた。
IOCとプロスポーツ人気
東欧諸国の実質プロ選手たちは「ステート・アマ」(国家アマ)と呼ばれていたが、日本の選手たちも一部からは「企業アマ」と揶揄(やゆ)された。
ところが、1972年のミュンヘン大会後に「ミスター・アマチュアリズム」と呼ばれたIOCのアベリー・ブランデージ会長(米国)が退くと、その後、IOCはプロ容認へと動く。世界最高水準の選手を出場させなければプロスポーツの人気に追いつけない。人気がなくなれば、巨額なテレビ放映権料が手に入らなくなってしまうからだ。
1974年の総会でIOC憲章から「アマチュア規定」が削除され、サッカーでは1984年のロサンゼルス大会からプロ選手の出場が容認されるようになる。
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IOCはそれまでの立場を一転させ、人気拡大のために各競技のトッププロを出場させようとする。実際、1992年のバルセロナ大会には米国バスケットボールのプロリーグ「NBA」の選抜チームが出場して金メダルを獲得した。「ドリームチーム」である。
一方、野球のメジャーリーグ(MLB)はバスケットと違って8月の五輪開催時期がシーズン中なので所属選手を五輪に出場させず、そのためIOCは野球の実施に消極的となった。
IOCとしては、大きなスタジアムが使われて、五輪競技で最も集客力が高いサッカーでもトップクラスの選手の参加を望んだ。
ところが、FIFAはそれに断固反対する。五輪にトップ選手が出場したのではW杯のステータスが脅かされ、収入が減るおそれがあったからだ。
こうして、IOCとFIFAの綱引きが始まった。
IOCとFIFAのやりとり
1988年のソウル五輪ではW杯出場経験がないすべての選手に門戸が開放された。つまり、1986年のメキシコW杯終了後に代表入りした選手なら五輪大会にも出場できたのだ。
そのため、ソ連は同年6月の欧州選手権で準優勝したチームのエース、アレクセイ・ミハイリチェンコ(ウクライナ人)を出場させて金メダルを獲得。決勝でソ連に敗れたブラジルではロマーリオやベベト、カレカといった世界的なスーパースターがプレーしており、3位に入った西ドイツでもユルゲン・クリンスマンが活躍した。
これに危機感を抱いたFIFAはソウル大会後に年齢制限を提案。IOCとFIFAは五輪サッカーを23歳以下の代表チームによる大会とすることで妥協した。
1992年のバルセロナ大会から新規則が適用され、同大会ではFCバルセロナ所属で21歳の若手ペップ・グアルディオラ(現・マンチェスター・シティー監督)がスペイン代表として出場して金メダルを獲得している。
その4年後のアトランタ大会を前にFIFAが譲歩してオーバーエイジ選手を加えることを認め、知名度の高いW杯経験のある選手も各国3人の枠内で出場が可能となった。
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こうして、五輪の男子サッカーは「23歳以下+オーバーエイジ」という分かりにくい大会となってしまった。しかも、中2日か中3日の6連戦というW杯では考えられない超強行日程なのに登録選手は18人だけという劣悪な条件……。
欧州のサッカー先進国で五輪サッカーの注目度が低いのも当然のような気がする。