なぜイチローは筋トレを「否定」したのか……運動科学の第一人者が解き明かす「トレーニング不要論」の真意
日本で、あるいは海外で球史に残る活躍を見せ、現役を退いたいまでも高い人気を誇るのがイチローだ。彼にはなぜ、際立ったプレーが可能だったのか。そして、どうして今でも人々の注目を集めるのか。運動科学の第一人者である著者による独自の分析を『レフ筋トレ 最高に動ける体をつくる』よりお届けしよう。
前編記事<もしや、あなたもハマってる!? 運動科学者が指摘する「やればやるほど損をするダメな筋トレ」の特徴>
イチローも大谷翔平も身体がゆるみきっている
イチローの身体を考察するのにあたり、なによりも最初に指摘しておきたいことがあります。それは、彼が「徹底的にやわらかく、ゆるんだ存在である」ということです。驚くほどの柔軟性を見せるアスリートは数多(あまた)いますが、そのなかでもイチローの緩解度の深い柔軟性はひときわ抜きんでています。
現役時代のイチローは、打席に立つたびに、ネクストバッターズサークルで股関節まわりや肋骨、そして肩まわりを十分にときほぐし、ゆるめる動作をしていたものですが、ファンでなくともそんな彼の姿を一度や二度、見て記憶している人は多いはずです。
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とりわけ両脚を大きく開いた状態からグーッと腰を落とす「腰割り」は印象的でした。イチローは、股関節をほぼ180度の角度で開脚し、両膝の関節が鋭角になるくらいまで腰を落とすことができたのです。股関節や膝関節を中心に、身体がトロトロにゆるみきっていないと、絶対にこのようなかたちにはなりません。
このことから、イチローは身体をゆるめ、やわらかくするための、明確で専門的に工夫された体操法(もしくは運動法)を導入していたと推察できます。
イチローがトレーニングを否定した理由
このように、「ゆる」むことは単なる身体現象ではなく、その人の精神性にまで深く関わることなのですが、ゆるみ方には選手ごとに違いがあります。
たとえば、大谷翔平も身体が非常に「ゆる」んだ選手ですが、彼は主としてその天性によって「ゆる」むことができているように感じられます。理性を司る(つかさどる)ことから「人間脳」とも呼ばれる大脳前頭連合野で意図的、計画的に「ゆる」ませようとしてゆるんでいるのではなく、もっと深部にある大脳基底核と古小脳の相互の作用によって、それが可能になっていると私は見ています。
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これに対し、イチローは顕在意識のレベルで、固まらず、「ゆる」む努力をしていたと思われます。トレーニングに対する彼の発言からも、その姿勢がうかがえます。
イチローは、目立って身体の大きい選手ではありません。とくにメジャーリーグのなかでは圧倒的に体格が小さく、そのぶん筋量も少ない選手でした。筋量の多い選手と比べれば、単純な筋力ではかなわなかったでしょう。にもかかわらず、ほかを圧倒するようなプレーを多方面で見せていました。
イチローは選球眼もフィールディングも盗塁も、圧倒的に優れています。その打球のスピードは、当時のメジャーリーグのなかでも一、二を争うと言われました。外野からの送球スピードもメジャーリーグで随一と言われ、「レーザービーム」が代名詞となったほどです。
彼が放つものすごいバックスピンのかかった外野返球は、まっすぐに糸を引くような美しい軌道だったことから、当時シアトル・マリナーズの監督だったルー・ピネラは「(送球の軌道で)洗濯物をいっぱい干せそうだ」と言ったそうですが、それほどまでに速い球速だったのです。
プロの野球選手ですから、毎日の運動量は相当なものだったはずですが、イチローはトレーニングで筋量を増やして身体を大きくすることを意識的に避けていました。あるインタビューでは「トレーニングで身体を大きくするのが、けっこう流行っていますよね」と、インタビュアーに聞かれて、「いやいや! ぜんぜんダメでしょ、そんな!」と言下に否定しています。
人間には生まれ持った身体のバランスというものがあり、それを無視して筋肉だけを太くすると、太くならない関節や腱が重さに耐えられず壊れてしまう、というのがイチローの見解でした。そして、さらに続けて、
「ぼくも[トレーニングを]けっこうやりましたからね。やって身体が大きくなると、嬉しくなるじゃないですか、バカだから(笑)。『ああ、いいなぁ、俺も身体が大きくなった』ってなるんですよ、春先。[そんなふうに嬉しく]なりがちなんですけど、スイングスピードが落ちるんです。まわらなくなっちゃうから、[肩や胸のあたりを指して]このへんが」
だから春先はいつも動けないが、シーズンインしてトレーニングができなくなり、やせてきて「無駄なところが省かれてくるから」スイングスピードが上がってくる、と本人が言っていました(引用の[ ]内は著者による補足)。
トレーニングを「否定」した真意はどこにあるのか?
このインタビューや、その他の発言から読み取れるイチローのトレーニング(明らかに筋トレを指しています)への批判的な姿勢が話題を呼び、「イチローのトレーニング不要論」がまことしやかにささやかれたりもしたようです。
しかし、イチローが否定していたのは、身体を大きくする、すなわち筋量を増やして身体をボリュームアップするためだけのトレーニング(それこそがラフ筋トレです)だったのは明白でしょう。
肩や胸が「まわらなくなっちゃう」のは、まさにそうしたラフな筋トレが、現実の試合で使われる筋肉・骨と脳との高度な統合性を失わせ、心身を硬くさせてしまう「マイナスの作用」を及ぼしたからに違いありません。
イチローは、どんなボールにも戦略的に対応できる的確な認知能力と、グローブやバットを巧みにコントロールしてスーパープレーを見せるだけの身体能力を備えた選手です。
しかし、従来のラフな筋トレはマイナスに作用し、磨き抜かれた高度な能力を低下させてしまう──、そう実感していたが故に、トレーニング(つまりはラフ筋トレ)を否定するような発言をしたのではないでしょうか。
「一般人には縁のない話」ではない
ここまで、そのパフォーマンスの実態から見て、レフな運動、行動、生き方を実践し、能力を遺憾なく開花させたアスリート、イチローを分析してきました。世界が超一流と認める人物を例にとりあげたことで、
「レベルが違い過ぎて、かえって目標にならない」
「自分には縁のない話」と感じた読者も多いことでしょうが、はたして本当にそうでしょうか。
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たとえば、学生やビジネスパーソンなどの一般人に、超一流アスリートが有しているほどの筋力は当然必要ありません。ですが、イチローのような超一流が見せる「ゆるみ、冷静さ、集中力」や、「礼儀正しく凜とした態度」といった精神性はどうでしょう。「人間力」とも言い換えられるそれら精神性こそ、万人が望むものであり、誰にとっても有益で必要なものではないでしょうか?
もちろん、スポーツへの適性や才能は人それぞれです。しかし、筋肉を使い、筋活動を行って生きる存在であるという点においては、トップ・オブ・トップの選手も私たちも何ら変わりありません。
超一流の選手が行っているトレーニングと同様の効果をあげるトレーニングを行えば、たとえイチローや大谷のようにはなれなくとも、私たちは心身の能力を飛躍的に高めることができるのです。そのような能力の高度化を目指すまったく新しい筋トレこそ、私が提唱する「レフ筋トレ」なのです。
最新刊で私は、レフな筋トレによる鍛錬の、誰もが知っていてきわめてわかりやすい象徴的な到達例として、イチロー、大谷、ボルトらをとりあげました。そのような具体的な理想像が現に存在するのですから、どうせ筋トレをやるなら脳と筋肉の高度な統合性に基づいたレフ筋トレを行ったほうが望ましいのは明らかでしょう。