「筒香だけはダメ、絶対」…筒香嘉智の復帰で情緒不安定になったベイスターズファンが見た「奇跡の一発」
「ハヤテ、後輩なんです! 桐光の後輩なんです! 今日横浜から見にきたんです! よかったです……」
4月30日のバンテリンドーム、私はプロ初勝利をおさめた中川颯(はやて)投手のヒーローインタビューを見ていた。オリックスを構想外となってベイスターズにやってきた若手投手が、苦難を乗り越えて勝ち得た最初の1勝。少し遠慮がちに、でもしっかりとした口調で「ベイスターズに恩返ししたい」と語る中川投手に、一際大きな声で呼びかける男性がいた。
「はやてぇぇぇぇ、よかったなぁぁぁあ」
会社帰りと思われるスーツ姿、試合中なんども握りしめたのであろうくしゃくしゃになった中川颯タオルを頭上に掲げて、インタビュー中のヒーローに向かって何度も飛び跳ねていた。なんだかたまらなくなって声をかけてしまった。
「おめでとうございます」
羨ましかった。ぐしゃぐしゃになりながら応援できる存在がいることが
汗なのか涙なのか、笑顔なのか泣き顔なのか、頭上の颯タオルくらいぐしゃぐしゃになりながら男性は言う。
「颯、後輩なんです! 桐光の後輩なんです! 今日横浜から見にきたんです! よかったです……」
周りのベイスターズファンからも「おめでとう!」という声が上がっていた。颯タオルを誇らしげに掲げたままバンテリンドームの階段を降りていく男性の後ろ姿があまりにも美しくて、しばらくぼうっと眺めていた。
羨ましかった。あんな風にぐしゃぐしゃになりながら応援できる存在がいることが。忘れていた感情が胸の奥を刺した。仕事も何もかも投げ出してかけつけて、固唾をのんで見守って、人目も憚らず涙を流すこと、そんなこと、これからの私の人生にあるのだろうか。急に自分が乾きかけの紙粘土みたいに思えてきた。
「筒香復帰」の報道で情緒が不安定に
MLB挑戦を経て、5年ぶりに筒香嘉智がベイスターズに帰ってきた。「筒香が日本に帰ってくるらしい」という報道から、ベイスターズ復帰の公式発表まで、スマホが擦り切れるくらい「筒香」で検索しまくり、最終的にツイッターには何も表示されなくなってしまった。
仕事の打ち合わせ中も「今この瞬間に重大な発表があったのでは」と不安になり、ちょいとスケジュール調べますねの顔しながら検索欄に「筒香」と打ち込んだ。日々情緒が不安定になる母親から子どもたちは静かに距離を取った。たぶん「シャイニング」のジャック・ニコルソンみたいな顔をしていたと思う。
ダメ、筒香だけはダメ、絶対
「どこの球団を選ぶのも選手の自由。どこにいっても、筒香が筒香らしくがんばってくれれば」とはどうしても思えなかった。いつもはそんな正論のたまういいファンづらしているのに。他球団への移籍情報が流れたとき、いかに自分が浅ましい人間かを思い知らされた。
ダメ、筒香だけはダメ、絶対。お願いだから許してほしい、どうか筒香だけは勘弁してください。パソコンの前で子どものように泣きじゃくるジャック・ニコルソン。子どもはますます母親から距離を取った。
「二軍で結果出していないのに」筒香一軍昇格に賛否両論
ベイスターズ入団が決定しても、まだどこか信じられなかった。ハマスタで行われた雨の入団会見にも出向いた。復帰の思いを口にする筒香をカッパを着ながら眺めていた。でも「あ、え、かわいい」という当たり前の感情しか出てこない。
本当に筒香はベイスターズに帰ってくるの? 帰ってきたの? ファームで青い練習着をまといバッティング練習をする筒香を見ても、同期である加賀繁スコアラーと談笑する筒香を見ても、「あ、筒香さん……」とチラチラ横目でみているルーキーと一緒にトンボかけてる筒香を見ても、まるで実感が湧かなかった。
「ママ、筒香、5月6日のヤクルト戦で一軍昇格じゃん!」
呆ける母親の目を覚まさせようとしたのだろう、長男が喜びいさんでLINEをくれた。でも知ってました。ママがどんな頻度でエゴサならぬ筒サしていると思っているの、でもありがとう。そしてそんなハイパー筒サによって、この昇格がかなり賛否両論を呼んでいることも知っている。
ハマスタに筒香がやってくることを喜ぶ人がいる一方で、「二軍で結果出していないのに、時期尚早じゃないか」「せっかく若手がチャンスを掴みだしているのに」と否定的な意見も多かった。賛にも頷き、否にも頷く。「興行優先の客寄せパンダだな」という意見には、「確かに筒香はパンダ並みにかわいいが」とも思った。5年の月日は、私から「いやいや筒香だよ、いけるっしょ」という謎の自信を奪っていた。
「昨日の筒香と今日の筒香は違う」と長男
ひとり身勝手な不安に苛まれる母親に、長男は笑って言った。
「昨日の筒香と今日の筒香は違うし、二軍の筒香と一軍の筒香は違うよ」「大丈夫、やってみないとわかんないじゃん」
そして「俺も見たかったなぁ~」と言いながら能天気に笑ってバイトに向かった。あの日、2019年のCSファーストステージ第3戦、雨の中でみた最後の筒香。私の隣で泣いていた中学生の長男ももう大学生になっていた。
5月6日。川崎から京浜東北線に揺られてハマスタに向かう。鶴見、新子安、東神奈川……5年の距離が一駅ごとに縮まっていく。筒香のユニフォームを着た人がひとり、またひとりと乗り込んでくる。野球は楽しいはずなのに、この日の筒香ユニの人々は皆、何かの裁きを受けにいくような面持ちに見えた。これから私たちは筒香を見に行くのだ。
斜め下に25のユニフォームを着た、分厚くて四角い背中
レフトウィング席に座ると、斜め下に25のユニフォームを着た、分厚くて四角い背中、筒香だ。筒香がいた。センターの桑原と何やらアイコンタクトしてニヤっとする。よく見えないけど、たぶん片っ方の口角だけあげているあの筒香スマイルだ。平凡なレフトフライをつかむと、観客から大歓声が湧き起こる。 ぜんぜんこちらからは見えないけど、たぶんあの筒香スマイルしているはずだ。自分の中で薄ぼんやりしていた感覚が少しずつ蘇ってくる。神宮のレフトスタンドでよく見ていた後ろ姿だった。
筒香がハマスタに帰ってきたことのお天気なりの歓迎なのか、この日の風は激しく巻いていた。ピッチャーはコントロールに苦しみ、フライがヒットになったりの乱打戦ならぬ乱風戦。しかしヤクルト石川雅規投手はさすがの落ち着きで風を制し、ヤクルト打線は乙女心のように千々に乱れるジャクソン投手の隙をついた。
劣勢だった。叫びのような、祈りのような、筒香応援歌の大合唱がハマスタに響くのを不思議な気持ちで聞いていた。この感じ、知ってる。
復帰初打席は四球、2打席目はセンターフライ。3打席目はフェンス直撃のツーベース。徐々に徐々にボールが外野スタンドに近づいていく。8回裏、3点差。今季手応えをつかんだ蝦名がツーベースヒットで出塁、5年前に筒香からキャプテンを託された佐野がライト前に火の出るようなタイムリーを放つ。筒香のいないベイスターズをバットで支え続けた宮﨑が粘って四球を選んだ。「ゴウ、出番だよ」と言わんばかりに。ああ、この感じ、知ってる。
何かを予感して、そんなこと普段はやらないのにスマホのカメラを構えて「ビデオ」をタップした。バッターボックスの手前で2回小さくジャンプした筒香。「つつごう」「つつごう」ハマスタに地鳴りのように響く筒香コール。この感じ、知ってる。
ゴンっという音がした。なつかしい、筒香の音だった
2017年日本シリーズ第5戦、1点差の4回。ソフトバンクのバンデンハーク投手から筒香がツーランを放ち逆転した。あの時もそうだった。筒香はホームランを打つと、きっとあの場の誰もが感じた。叫びのような、祈りのような応援歌と、大きくゆったりと構える筒香と、空と大地と野球の神様。これらの要件が特殊な環境下で重なり合ったとき、ハマスタはおかしな空気に包まれる。
ゴンっという音がした。なつかしい、筒香の音だった。ボールはまっすぐにライトスタンドへと消えていく。
構えていたスマホはとうに落として、衝突事故のドラレコみたいな映像しか残っていなかった。
私にとってのベイスターズはやっぱり筒香
汗なのか涙なのか、笑顔なのか泣き顔なのか、年季の入った筒香タオルくらいくしゃくしゃな顔で私は立ち尽くしていた。あの時羨ましい気持ちで見つめていた、バンテリンドームの中川颯ファンの男性。後輩でもなんでもないけど、私にとってのベイスターズはやっぱり筒香でした。仕事も何もかも投げ出してかけつけて、固唾をのんで見守って、人目も憚らず涙を流すこと、それは筒香でした。ジャック・ニコルソンから乾きかけの紙粘土を経て、私は今心から叫ぶ。
「筒香、筒香なんです! ベイスターズの筒香なんです! アメリカから帰ってきたんです! よかったです……」
続く9回を森原康平が抑え、6-5でベイスターズが勝利した ©時事通信社
(西澤 千央)