〈写真多数〉集落から遠く離れた山中にある「異世界」のような光景…現地での聞き込みで判明した“ナゾの神社”に残された“意外な歴史”とは
〈 「無事に帰れますように…」断崖絶壁、険しすぎる岩肌にスッポリ建てられた“ナゾの神社”…高知県の山奥で“想像を絶する”参拝をしてきた 〉から続く
高知県に位置する、まるで“異世界”に建造されたのかのような聖神社。
現地へと出向き、いくつもの難所を越えながら、なんとかお堂までたどり着けたが、脳裏をよぎるのは「このまま無事に帰路を辿ることはできるのか」という不安であった。
それにしても、なぜこのような場所に神社が建造されたのだろうか……。
対岸から眺める聖神社
◆◆◆
ナゾのメッセージが彫られた“石”
行きは難儀したものの、帰りの道のりは早かった。最短ルートを選ぶと30分もかからず車まで戻ってこられたのだ。
しかし、最後に、また気になるものを目にしてしまった。参道の入口に、カタカナで“ミサ”とだけ彫られた長方形の石が置かれている。
文字は赤色に着色され、周囲の光景から異彩を放っている。カタカナ2文字というのも、なんだか意味深だ。
気になることだらけの聖神社を後にしつつ、ひとまず越知町の中心部まで戻る。
そして、聖神社神官のお孫さんにあたる岡村豊明さん(76歳)に話を聞く機会を得た。
そもそもなぜあの場所に神社が造られたのか。どう考えても大変な立地だ。ストレートに疑問をぶつけてみる。
岡村さんによると、来歴ははっきりせず、誰がいつ建てたのか、はっきりとした記録はないという。
「江戸時代ぐらいの話やと思うんやけど、ある日突然、一晩にしてあそこに材料が運ばれとったと言われてます」
村人たちが神社を建立しようと材料を集めて置いていたところ、誰が運んだでもなく、突然材料があの場所に運ばれていたという。それを当時の村人たちが組み立て、聖神社が建立されたと伝えられているのだそうだ。なんとも神秘的で素敵な話だが、それだったらいっそのこと「ある日突然お堂が建っていた」と完成させておいてほしかった気もする。
真相はわかりかねるものの、建造後、地域の人たちの手で維持管理されてきたことは間違いない。資料によると、明治12年に改築されたことまでは確認がとれた。しかし、昭和後期になると手入れが行き届かず、荒廃してしまったようだ。
聖神社は、集落から遠く離れている。維持管理のためには山に登らないといけない。荒廃するのも、やむを得ないだろう。
思いがけない“改修”のきっかけ
そんなとき、荒廃ぶりを見かねた岡村さんの兄・豊延さんと伯父の昭さん(故人)が中心となり、村の有志の方々も加わって昭和63年にお堂が改修されたのだという。
手作り感あふれる吊り橋が架けられたのは、それよりも最近になってからのこと。いろいろと考えた末、パイプを使ってケーブルを固定したのだという。
また、話を聞いていくと、当初は吊り橋ではなく、野猿だったという驚くべき情報が飛び出した。野猿とは、ケーブルに吊るされたカゴに人が乗り、ロープを引っ張ることでカゴが前に進む渡り方だ。今でも奈良県十津川村や徳島県三好市などに現存こそするが、設置例は極めて少ない。
人力で川を渡ることができる珍しい移動手段なのだが、当時、使っていたのが適したワイヤーではなかったようで、すぐに伸びてしまい、真ん中がたるんでしまった。そのため、カゴが中央で止まってしまい、かなりの力でロープを引っ張らなければ対岸に渡りきれなくなったのだという。川の真ん中でカゴが動かなくなる状況を想像すると、なんとも恐ろしい。
それから、吊り橋に改造したそうだ。経緯も含めてビックリなのだが、さらに驚くことに、野猿のカゴは今も吊り橋の一部として使われているというのだ。そういえば、吊り橋の途中で段差があることが気になっていた。その段差部分に、滑車が付いたカゴが使われていたのだ。野猿のカゴが吊り橋に組み込まれていたとは……。その発想に脱帽だ。
聖神社へ向かうルートの珍しさに、つい興奮してしまう。
続けて、対岸ルートから分岐する古い廃道があったことについても聞いてみた。
廃道が残っていた“理由”
個々の道のことはわからないとしながらも、かつては神社対岸の山全体に畑が広がり、手入れや収穫のため、日常的に村人が出入りしていたそうだ。
そのため、昔から道もたくさん存在していたという。そうした作業道の一つを地域の方々が整備し、聖神社を対岸から眺めるルートを造ってくれたわけだ。地域の人たちの手によって造られ、管理されてきた道。だからこそ、手作り感があふれていたのだ。
鋼製のケーブルが手すりとして使われていたことについても聞いてみた。すると、かつて聖神社の周辺にはマンガンの鉱山があり、鉱石などを運ぶため、索道(業務用のケーブルカー)があったという。閉山後は索道も使われなくなり、索道のケーブルがそこにあったので、ロープの代わりに使ったとのこと。索道のケーブルを歩道の手すりとして転用するという発想は、普通ではなかなか出てこない。
途中にあったトンネルも、マンガン鉱山の坑道として掘られたものを利用したのだという。
採掘の跡はなかったので、鉱石や資材の運搬用に掘られた坑道の可能性が高そうだ。周辺には、このほかにも当時の坑道がたくさん残っているという。
後日調べたところ、昭和15年から25年にかけて、神戸製鋼が大規模にマンガンを採掘していた経緯が判明した。おそらく、それ以前からも、同地では小規模に鉱物が採掘されていたのではないか。
当時、鉱山で使用していた巨大なコンプレッサーが今も山の上に残っていると教えてもらった。気になった私は、話をお聞きした翌日、早速再び山の上まで探しに行ったのだが、見つけられなかった。いずれまた、探しに行かなければならない。
さて、岡村さんであれば、聖神社について何でもご存知なのではないかと思い、山の入口にあった「ミサ」の石板についても聞いてみた。
“石”に彫られたナゾのメッセージの理由
すると「あれは山の持ち主の名前やね」と岡村さん。地主さんが女性のミサさんで、誰の持ち物であるかを示しているのだという。彫りやすいようにカタカナにしたのだろう。意味深な内容ではなかった。正直、この謎まで解決するとは思っていなかったが、おかげでとてもスッキリした。
最後に、「あそこまで行くのは大変だから、(山の)下でもお参りできるようにしてある。今工事もしてる」とも教えてくれた。
聖神社は、江戸時代からここ小日浦地区の氏神様として祀られてきた。しかし、道のりがあまりに険しく、かつては女人禁制の山だったこともあり、参拝できる人が限られていた。そこで、誰でもお参りできるようにと、山の下にも複祀されるようになったのだという。翌日確認に向かうと、確かに登山口の近くに五社神社という神社があった。鳥居には聖の文字も入っている。鳥居の建立年からしても、明治時代にはここに複祀されていたようだ。おそらく、5つの神社を合祀して五社神社になったのだろう。
お社の前では、建物を造る工事が行われていた。岡村さんによると、みんなが集える建物があったが老朽化したため、建て替えているそうだ。
気が付くと1時間以上にわたって話を聞いていた。岡村さんにお礼を述べて、越知町を後にした。
鳥取県にある投入堂は過去に2度訪れたことがある。投入堂と聖神社、いずれも険しい場所にあり、見た目も似ている。しかし、入口で靴や服装のチェックを受けて入山料を支払い、下山のチェックまでしてくれる投入堂とは異なり、聖神社は全てにおいて自己責任。地域の人たちの手により維持され、ご厚意により我々部外者も参拝することができる。現地に人の姿は無いが、人のあたたかみを感じる。それがまた、聖神社の大きな魅力だと思っている。
地域の人たちの努力によって維持されてきた聖神社。しかし、近年は高齢化により維持が難しくなってきていると聞く。今後は行政とも連携し、維持管理を行っていく予定だ。岡村さんをはじめ、多くの方々のご厚意により参拝できるということを心に留めて、安全第一でぜひ訪れたい。
私が住む岐阜からお手伝いできることは限られるが、今後も末永く小日浦地区の氏神様として祀られ、あの景色を眺められることを願っている。
(鹿取 茂雄)