マラドーナの「神の手」を38年前に真横から見たベテラン記者が綴る南米サッカーの「騙し合い」
連載第4回
サッカー観戦7000試合超! 後藤健生の「来た、観た、蹴った」
なんと現場観戦7000試合を超えるサッカージャーナリストの後藤健生氏が、豊富な取材経験からサッカーの歴史、文化、エピソードを綴ります。今回は1978年の初めての南米サッカー観戦体験と、当地独特の「騙し合い」のサッカーの風土について。
「騙し合い」の南米サッカーと言えばコレ。後藤氏はマラドーナの神の手をスタジアムの真横の位置から見たという photo by Getty Images
【初めての南米サッカー観戦は46年前】
現在、アメリカでコパ・アメリカ2024(南米選手権)が開催されている。だが、ユーロ2024(EURO2024)も同時に開催されているし、国内でもJリーグをはじめ各種の大会が行なわれており、すべての大会を観戦するのは体力的になかなか難しい。
それに、実は僕は今、夏風邪を引いて体調が万全ではないので、コパ・アメリカ観戦は強豪同士がガチで対決する準々決勝以降からにしようと思っている。したがって、今のところたまに"覗いてみている"だけである。
最近は南米のサッカーもずいぶん近代化されてきている。少なくとも代表同士の試合などは、ヨーロッパのサッカーとあまり変わらない。まして、今回は大会の舞台も南米大陸ではなく、アメリカ合衆国。「南米臭さ」は薄い。
しかし、昔の南米のサッカーというのは現在とはだいぶ趣(おもむき)が異なっていた。
僕が初めて南米のサッカーを観戦したのは、1978年にアルゼンチンまでW杯を見に行った時だった。
大韓航空の格安チケットでアメリカのロサンゼルスまで渡り、ロサンゼルスのチケット屋でパンアメリカン航空のチケットを買って、ペルーの首都リマに到着した。日本では、まだ、南米まで直行の格安航空券は手に入らなかったのだ。
ペルーでは石油値上げがきっかけのゼネストに見舞われたが、なんとか「スト破り」のバスで隣国ボリビアまで脱出。事実上の首都であるラパスで、ボリビアの強豪、ザ・ストロンゲストとアルゼンチンのボカ・ジュニオールズの親善試合を見た。
ラパス市内では最も標高が低い(空気が濃い)場所にスタジアムはあったが、それでも標高約3600メートルの高地。ボカはその日の朝にラパスに乗り込んできて、高山病の症状が出る前に試合をして、すぐにブエノスアイレスに帰って行った。
僕はその後、ボリビアからチリに渡って、首都サンティアゴでチリ国内リーグのダブルヘッダーを観戦してアルゼンチン入りした。
アルゼンチン大会終了後にはブラジルに渡って、サンパウロでパルメイラス、リオデジャネイロでフラメンゴの試合を見た(W杯に出場していたセレソンの選手たちは、1週間後にはもう国内リーグでプレーしていた)。
【神の手は南米のトリックプレーの最たるもの】
南米のサッカーは、もちろん華麗な個人技のサッカーという面もあったが、同時に勝負に拘るサッカーでもあった。当たりの激しさが印象的だった。そして、ピンチになったら躊躇なく反則で止めてしまう。
昔の南米のサッカーはそんな感じだった。相手選手とのえげつない駆け引きが繰り返され、ベンチにいる相手チームの監督とつかみ合いをすることもある。そして、選手たちはレフェリーのことを欺こうとする......。
そんなトリックプレーの最たるものが、あのディエゴ・アルマンド・マラドーナによる"神の手"だ。
メキシコ市のアステカスタジアムで行なわれた、1986年W杯準々決勝のイングランド戦の後半。ゴール前に高く上がったボールをGKのピーター・シルトンと競り合ったマラドーナは折りたたんだ手にボールを当ててゴールを陥れた。もちろん、ハンドの反則だ。しかし、その時のレフェリーだったアリ・ビン・ナセル氏(チュニジア)にはそれが見えず、そのまま得点が認められた。
そして、試合後にマラドーナは「あれは"神の手"だった」という謎のコメントを残したのだ。
その4年後の、1990年イタリアW杯。ナポリで行なわれたグループリーグのソ連戦でも(当時のマラドーナはナポリ所属)、マラドーナは"神の手"を繰り出した。今度は自陣ゴール前で相手のシュートを手で止めてしまったのだ。ところが、この時もスウェーデンの名レフェリーだったエリク・フレデリクソン氏には"神の手"が見えなかったのだ。
【「騙し合い」の風土】
もちろん、今だったらVARによってイングランド戦の先制ゴールは取り消され、ソ連戦ではソ連にPKが与えられたはずだ。しかし、天才マラドーナのことだ。VARカメラには映らないような方法で"神の手"を発動することだって不可能ではないのかもしれない......。
「神の子」によってVARが欺かれるシーンを見てみたいような気もする。
イタリア大会の"神の手"は、僕は泊まっていたミラノのホテルのテレビで見たのだが、メキシコ大会ではアステカスタジアムの記者席、それもまさにそのプレーが行なわれた地点の真横の位置でそれを目撃した。
その瞬間、僕は「あれ、ハンドじゃないか?」と思ったのを記憶している。
僕の周囲には、たまたまアルゼンチンの記者が大勢座っていたのだが、周囲を見回すと彼らも「ああ、あれは間違いなくハンドだ」と口をそろえた。
おそらく、南米での試合では、ああいった「故意のハンド」というトリックはしょっちゅう使われるのだろう。
たとえば、2010年南アフリカW杯準々決勝のウルグアイ対ガーナ戦。1対1の同点で迎えた延長後半の終了間際に、ウルグアイのルイス・スアレスが故意のハンドでシュートを止めた。これはレフェリーに見つかってしまってガーナにPKが与えられたが、アサモア・ギャンが失敗。PK戦でウルグアイが準決勝に進出した。
だから、アルゼンチンの記者たちはすぐにハンドだとわかったのだろう。もし、レフェリーが南米出身だったら、ハンドはすぐに見破られたのではないだろうか......。
そんな「騙し合い」の風土があるから、南米ではレフェリー側も自分を騙そうとする選手たちと対峙するために、いろいろな武装をすることになる。
【南米生まれのアイデア品】
最近の発明品で最高の傑作がバニシングスプレーだろう。
今では、Jリーグの審判も腰に装着しているので日本でもすっかりお馴染みだ。
ゴール近くで反則が起こると、レフェリーはボールをセットする位置にスプレーを使って半円状の印をつける。そして、そこから10ヤード(9.15メートル)離れたところにラインを引く。守備側のいわゆる「壁」は、そのラインより前に出てはいけないのだ。
勝負に拘る南米サッカーでは、壁の位置を巡ってトラブルが絶えなかったのだろう。
壁は一歩でもボールに近づこうとして、レフェリーが見ていない間にじりじりと前に出てくる。それを阻止しようとする攻撃側の選手との間にトラブルも起こり、ひと悶着もふた悶着も起こり、実際にFKが蹴られるまでに数分もかかってしまう。
南米の観客は、このやり取り自体も試合の一部として楽しんでいるからいいのかもしれないが、レフェリーたちはこれをなんとかしようとしてスプレーを考案したのである。
もともと、スプレーというアイデアはイングランドで生まれたという。だが、イングランドのサッカー協会(FA)は、そのアイデアを拒否。実験すら行なわれなかったという。
FAをはじめとしたヨーロッパのサッカー協会、あるいはルールを統括しているIFAB(国際サッカー評議会)は、ルール改正に関してはとても保守的なのだ。
そこで、スプレー発明の栄誉は南米にもたらされた。
2000年のコパ・ジョアン・アヴェランジェ(開催不能となった全国リーグに替わるブラジルの非公式大会)でスプレーが初めて使用され、2002年にはアルゼンチンで商品化されて南米各国で使用されるようになった。
そして、2011年にアルゼンチンで開催されたコパ・アメリカで採用され、2013年のU-20W杯を経て、ついに2014年の南アフリカW杯で採用されることになった(当時会長だったゼップ・ブラッターを筆頭に、FIFAはIFABなどに比べると新しいアイデアに飛びつく傾向がある)。
サッカールールに関する南米生まれのアイデアはこれだけではない。次回のコラムでもいくつか紹介してみたい。