「柱稽古編」最終話で産屋敷耀哉がみせた“狂気” 妻子もろとも“自爆”した行為は「正義」といえるのか
【※ネタバレ注意】以下の内容には、アニメ、既刊のコミックスのネタバレが一部含まれます。
アニメ「柱稽古編」最終話が6月30日に放送された。「柱稽古編」は、もともと「刀鍛冶の里編」の激しい戦闘と、残酷な戦いが強いられる「無限城編」の合間、鬼殺隊の隊士の“ほのぼの”とした交流や、日常のひとコマが描かれるはずだった。しかし、最終話では、鬼殺隊の長・産屋敷耀哉の執念が見せつけられ、その“狂気”には、鬼の総領である鬼舞辻無惨がたじろぐほどだった。終盤で描かれた耀哉の“自爆シーン“は、そのインパクトの強さから視聴者からもさまざまな意見が出た。はたして、「人間の狂気」と鬼のそれとの違いはどこにあるのか。耀哉の行為は「正義」といえるのか。アニメの描写を忠実に読み取りながら、行為の意味を考察したい。
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■産屋敷耀哉と鬼舞辻無惨の邂逅
病床に伏し、半年以上も前から余命宣告されていた、鬼殺隊の長・産屋敷耀哉(うぶやしき・かがや)。身体を起こすだけで血を吐き、血涙を流しながらも、たくさんの人々を魅了し、癒してきた、彼の声の穏やかさは失われていない。
「ついに…私の…元へ来た…今…目の前に… 鬼舞辻…無惨… 我が一族が…鬼殺隊が… 千年…追い続けた…鬼……」(産屋敷耀哉/16巻・137話)
病のために見えなくなった彼の目の代わりに、妻・あまねが無惨の外見特徴を耀哉に伝える。20代半ばから後半くらいの、華やかでしゃれた洋装姿の無惨は、美しい顔を崩さぬまま、「醜い 何とも醜い お前からはすでに屍の匂いがするぞ産屋敷」と、耀哉に侮蔑の言葉を投げつけた。
■“最強の鬼”を倒すための秘策
無惨は、時々眉をひそめながら「身の程も弁えず」「私の邪魔ばかり」「反吐が出る」と口にしたが、耀哉はそれを意に介さない。「君は…来ると…思っていた…必ず…」と、無惨の襲来の予見が的中して、少しうれしそうですらあった。
「君は私に…産屋敷一族に 酷く腹を立てていただろうから… 私だけは…君が…君自身が殺しに来ると…思っていた…」(産屋敷耀哉/16巻・137話)
耀哉は鬼殺隊の長として、そして産屋敷一族の当主として、自分自身を囮(おとり)にするという奇策に出た。しかしそれは、無惨の虚をつくため妻子を道連れにするという、あまりにも残酷な作戦だった。
■なぜ妻子とともに自爆したのか?
耀哉は無惨を自邸まで誘い出し、すさまじい量の火薬で、無惨を自分と家族もろとも爆破させようとした。この凄惨なアイデアに、嫌悪感と非難を見せたのは、他でもない無惨だ。
「あの男は完全に常軌を逸している」(鬼舞辻無惨/16巻・137話)
産屋敷夫妻については、死の直前までの様子は確認できるものの、彼らが爆発で吹き飛ぶ姿、肉体が焼け落ちる様子は描かれなかった。一方で、熱風と爆風、火薬の中に仕込まれていた金属製の小さな武器を身に受けた無惨の傷は、生々しくリアルに描写された。一瞬とはいえ、産屋敷家の人々にも、同様の被害と痛みがもたらされたのだと、見ているわれわれにも容易に推察できる。
なぜ、ここまで過酷な方法を選んだのか……自分以外の命を巻き添えにする必要があったのか……そんな思いに、誰もがさいなまれる。鬼舞辻無惨は、死の直前の耀哉の“仏のような笑み”を思い出しながら、「あの腹黒」と吐き捨てた。
■優しいはずの人たちの「怒り」
「永遠というのは、人の想いだ。」
耀哉は無惨にそう語りかけた。では、その「想い」とは何を指すのか。
「大切な人の命を理不尽に奪った者を 許さないという想いは永遠だ」(産屋敷耀哉/16巻・137話)
耀哉がここで告げたのは「許さない」という感情、つまり「怒り」であった。耀哉にとって、「永遠」という清らかなものを支えるのは、ネガティブな「怒り」だと考えていたことに驚かされる。
しかし、「怒り」は鬼滅の精神世界をあらわす、重要なキーワードだ。『鬼滅の刃』の第1話目で、水柱の冨岡義勇が「怒れ 許せないという 強く純粋な怒りは 手足を動かすための揺るぎない原動力になる」とつぶやいた場面があったが、このシーンと重ねてみると、鬼滅の物語において、「怒り」が意味するところがみえてくる。
ただ、人の心を失った鬼と、復讐に燃える人間の狂気に、どれほどの“違い”があるというのかという疑問は残る。その“違い”を考察するには、耀哉のセリフや描写を注意深くひもとく必要がある。
■柱たち、隊士たち、炭治郎たちの「怒り」
耀哉は、自分の死が「鬼殺隊の士気」を高めるのだと言った。実際に、耀哉の死が凄惨であればあるほど、柱たちの悲憤は強く、深くなった。
「君はね 無惨 何度も何度も虎の尾を踏み 龍の逆鱗に触れている 本来ならば一生眠っていたはずの 虎や龍を 君は起こした」(産屋敷耀哉/16巻・137話)
無惨の因縁の敵・竈門炭治郎は、親弟妹を鬼に殺され、妹も鬼化させられた。平凡で優しい炭焼きの少年は、執念の刃を振るうようになる。強いながらも明朗な人柄の煉獄杏寿郎も甘露寺蜜璃も、他者を助けるために戦う。元柱の宇髄天元も、入隊までの経緯は異なるものの、同様であった。
伊黒小芭内は鬼によって、親族たちの大いなる争いを引き起こされ、悲鳴嶼行冥は大切に育てていた血のつながらない「小さな家族」を失っている。時透無一郎、胡蝶しのぶ、冨岡義勇は、かけがえのないきょうだいを亡くした過去がある。不死川実弥には、唯一生き残った実弟がいるが、どうしても彼だけは死なせるわけにはいかない。
このように、彼らの「尽きることのない鬼への怒り」「鬼を滅殺したいという信念」は、他者への愛情が深いがゆえに生まれていることがわかる。自分の命を捨てても、倒さねばならない敵がいるのだ。死んでしまった大切な人たちへの想いは、時がすぎてもなお、薄れることはない。
■鬼殺隊に「あって」、無惨には「ないもの」
耀哉の狂気の自爆に対して、無惨が「(耀哉の)妻と子供は承知の上だったのか?」と思う場面があるのだが、それを受けて、一部からは「無惨の方が人間らしい感情があり、耀哉の方が“異常者”だ」という声が上がった。しかし、本当にそうだろうか。
人が誰かのためにみずから命を捨てるには、深い深い愛情が必要だ。愛する人が殺害された時、時間がどれだけ経過しても、その怒りを持ち続けるためには、亡くした人への「愛」がいる。耀哉は鬼の被害を終わらせるという信念を貫きとおし、彼の家族は愛のために耀哉の作戦決行に力を貸した。万人には理解されないかもしれないが、そこに「人間らしい愛」があったことに疑いはないだろう。
かつて人間だった鬼舞辻無惨は、「人間は、愛する人をなかなか傷つけることができない」ということを“知って”はいた。しかし、その先にある感情を、無惨は知らないのだ。他人の命を踏みつける側にいる鬼の無惨は、愛する者を永遠に失ってしまった者の悲しみと怒りが分からない。
この「人間らしさ」については、耀哉の自爆によって、戦闘態勢に入った炭治郎と柱たちの表情を見てみると、よく理解できる。彼らの顔に浮かぶのは残忍さではなく、途方もない悲しみだった。取り戻すことができない失われた命への悔しさを、わが身の不幸として感じている。
ここから先、鬼舞辻無惨は、鬼殺隊の執念と怒り、耀哉が残した狂気を一身に受けることになる。鬼が強いか、鬼殺隊の「想い」がより強いのか。映画3部作で「無限城編」がどのように描かれるのか、今から待ち遠しい。
◎植朗子(うえ・あきこ)
伝承文学研究者。神戸大学国際文化学研究推進インスティテュート学術研究員。1977年和歌山県生まれ。神戸大学大学院国際文化学研究科博士課程修了。博士(学術)。著書に『鬼滅夜話』(扶桑社)、『キャラクターたちの運命論』(平凡社新書)、共著に『はじまりが見える世界の神話』(創元社)など。