「この子、バカなのかもしれない…」ベストセラー編集者が著名人相手に失礼承知で切り込んでいくワケ
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ホリエモンに電話一本で仕事をとりつける常識外れの編集者・箕輪厚介は、媚を売るよりも目的地を睨んで走り続けるということが、仕事において何よりも大事であるという。次々と話題の本を手掛ける、その頭の中をほんの少し覗いてみよう。※本稿は、箕輪厚介『かすり傷も痛かった』(幻冬舎)の一部を抜粋・編集したものです。
編集者は読者の代表
作者との友情に甘えるな
僕は自分が編集する本の著者とは、ある意味で親友、戦友、悪友のような関係になることが多い。しかし、勘違いしてはいけない。あくまで見るべきは著者ではない、読者だ。過程ではない。結果だ。出版業界では編集者は著者の機嫌を伺いながら、10歩くらい後ろを歩くのが普通だという考えがある。しかし僕は著者とはフラットな関係でいようと考えている。
サイン会やトークイベントで著者の隣に寄り添って四方八方にひたすら頭をペコペコする。そんな機械的な御用聞きみたいなことをやっていても仕方がない。そんなものは著者のためではなく自分の自己満足だ。
大切なことは、いい本を作り、売るためには、なにが必要なのかと死に物狂いで考えて、実行する。そのためにペコペコすることが有効な手段だったら首が折れるまでペコペコする。
僕が作っている本は基本、インタビューをベースに最初の原稿に起こす。インタビュー中には相手が言いたくないことや原稿にできないことまで、根掘り葉掘り聞く。インタビュー中に盛り上がって100聞いたとしても、いざ原稿になり本となる過程で削られて80になることが多い。
だから削られた結果としても100になるように、インタビューの場では120まで踏み込んで、エグいくらいに聞いたほうがいい。相手のご機嫌など伺わず、急所に切り込めなければ意味がない。「作家先生」と必要以上に敬っていると、通り一遍な質問しかできない。当然相手もそのレベルでしか話してくれない。こっちが勝手に自主規制してしまってはいけない。編集者は書き手のファンではなく、読者の代表なのだ。
「この子、バカなのかもしれない」と
思われることの利点
僕の場合は「この子、バカなのかもしれない」と思われるくらいに何でも突っ込んで聞いてしまう。すると、相手もガードを下げて普段話さないことまで打ち明けてくれることが多い。
たとえば、「ある女性とご飯食べててさー」と言われても、真面目な人ほど、どうせ原稿には書けないだろうと思って流してしまうけど、僕なら絶対「それって誰ですか?あの芸能人ですか?」と無邪気に聞く。失礼な奴だな、と思われてもいい。そこから、本物の言葉が、生身の人間性が溢れ出してくる。
絶対に言ってはいけない秘密なのに、「この人に言ってしまいたい」と思われる人間になれるかどうかが編集者として重要だ。僕は口が軽くて有名だが、日本中のタレコミ情報が集まってくる。形式的な仕事をしている人間に人は心を開かない。
僕にとっての目的は、あくまで良い作品を作って売ることであって、いくら著者のことが好きであっても、気に入られることは目的にはならない。だから僕は、怒られるかもしれないと考えて何かを躊躇することはない。作品が良くなるのなら言いにくいことも言う。
それは、その瞬間嫌われても、売れればいいと思っているからだ。地雷を踏みながらでも、ゴールまで駆け抜けてやるみたいな感覚。萎縮することもない。
なぜなら、いくら良好な関係だったとしても、まったく本が売れなかったらお互いにもう一緒に仕事しないからだ。そこはシビアだ。ビジネスというのは友達ごっことは違う。結果と結果、力と力で向き合うしかない。しっかりと自分が思うことを伝え、良い作品に仕上げる。
それが売れれば、その過程でどんなに「こいつ、図々しいな」と思われても、評価は一気に逆転する。編集者と著者の関係を超えていく。
結果を出す変態に仕事が集まる
目的地を睨んで走り続けろ
僕は結果的に、本を出した著者とは、単なる著者と編集者を超えた関係になっている。見城徹が社長を務める幻冬舎の社員になり、堀江貴文のオンラインサロンで編集学部教授を任せてもらっていて、NewsPicksの佐々木紀彦とは「NewsPicksアカデミア」というサービスを立ち上げた。
他にも数限りなく、本を作ったあとには本を超えて繋がっている。それは僕が著者の顔色ではなく目的を見ているからだ。結果が出ない良い人より、強引にでも結果を出す変態に仕事は集まる。ホリエモンにNewsPicksCOMICの編集長に就任してもらうときも、飲み会で一言いえばOKをもらえる。
普段なかなか動かない案件もLINE1本、電話1本で「箕輪ならしょうがねえ」と大きな話を決めることができる。それは箕輪ならなんだかんだカタチにするだろうと信頼してもらえているからだ。媚を千回売っても信頼は生まれない。衝突、揉め事上等で、ただ目的地だけをにらんで走り抜けろ。
目的を達成することは仕事人として何よりも大切なことだ。しかし技術が進化し情報が溢れている現在、機能的な役割を担うということは代替可能な存在になることを意味する。
著作家の山口周さんがこれからは「『役に立つ』より『意味がある』に価値がつく」と言い、多くのビジネスパーソンが納得した。「役に立つ」という機能性で競争するとトップの1つしか生き残れない。2番目に役に立つホチキスや地図はいらない。
そこで「役に立つ」ではなく「意味がある」にシフトすると、その競争から逃れられる。
例えばタバコであれば、同じ銘柄のタバコを吸っている俳優の映画が頭に思い浮かんだりする。個性の数だけモノが存在できて、ニッチで豊かな経済圏を構築できる。車であれば、機能に優れたトヨタ車よりブランドとしての意味合いを感じるフェラーリやランボルギーニのほうが数倍の価格で売れる。
「役に立つ」より「意味がある」。これは今の時代を生きるビジネスパーソンの合言葉となった。僕はここからさらに進み「意味がある」から「意味すらない」へのパラダイムシフトが今後起きると予想している。コルクの佐渡島庸平さんと一緒にサウナに入っていたら、佐渡島さんが面白いことを言っていた。
模倣しながら人間は学ぶ
それが新しい創造を生む
グラフを思い浮かべてほしい。横軸のプラス方向は「曖昧」、マイナス方向は「絶対」。縦軸のプラス方向は「創造」、マイナス方向は「模倣」にする。
スポーツでも勉強でも、最初はとても曖昧で模倣度が低いところから始まる。お手本となる先生や教科書の模倣をすると、少しずつ上達して模倣度が高くなる。「曖昧」とは逆ベクトルの「絶対」とは何か。「絶対」とはみんなが理解できるもの。
「絶対」の象徴はお金だ。「絶対」×「模倣」はビジネスで勝つという世界観。
そしてある程度競争に勝つと、人は「創造」へと向かう。絶対的であり、なおかつ創造的。これはどういう状態か。「ご飯がおいしい」とか「サウナに入ると気持ちいい」といったように、みんなが共感できる感情や感覚が「絶対」×「創造」の領域だ。少年ジャンプのようなエンタメ。ブランドでいうとナイキとかアップルのようにみんなが理解できる絶対性の中で創造的なポジションを取る。
『かすり傷も痛かった』 (幻冬舎) 箕輪厚介 著
つまり人は誰しも曖昧な状態で模倣しながら学習し、成長する。「絶対」×「模倣」に到達すると、人は次に「絶対」×「創造」に向かう。そして最終的に「創造」×「曖昧」に行き着くのだ。
「絶対」×「創造」をエンタメやブランド。「創造」×「曖昧」をアートだとイメージするとわかりやすい。
コンテンポラリーアートの世界では「無」によって「無限の有」を想像させる作品がある。
AIが人間の機能性をほとんど代替するようになると、人間のやるべきことは「役に立つ」から「意味がある」に移り、さらに「意味すらない」ものへ変わっていくのだ。