160人死亡した三河島事故62年、安全への願い今も…「大切な人が乗っている思いで運行を」
(写真:読売新聞)
62年前の5月3日、東京都荒川区の国鉄三河島駅付近で、列車が多重衝突し、160人が死亡した。国鉄の全線で「ATS」(自動列車停止装置)が整備されるなど、鉄道の安全対策が進むきっかけになった三河島事故。当時、遺体の安置所になった近くの寺には、今も鉄道各社が社員研修で訪れ、安全への誓いを新たにしている。(竹田迅岐)
■乗客の列に電車
「もしかしたら自分の大切な人が乗っているかもしれない。そんな思いで運行に携わってほしい」
現場から約400メートルの距離にある浄正寺の本堂。副住職の多賀谷友紀さん(50)は先月25日、JR東日本盛岡支社の社員ら12人にそう語りかけた。
事故は、1962年5月3日午後9時37分頃に起きた。赤信号を見落として脱線した貨物列車に、上野発の下り電車が衝突。車両から脱出して近くの三河島駅を目指して線路を歩いていた乗客の列に、上野行きの上り電車が突っ込み、次々とはねた。この多重衝突事故で160人が亡くなり、296人がけがをした。
寺には、事故直後から近隣住民が遺体を家の雨戸に乗せて運び込んできた。遺体は本堂に収まらず、寺の駐車場にまで並び、警察や消防がせわしなく出入りした。身元確認のためにひっきりなしに遺族が訪れ、境内にはむせび泣きの声と怒声が響いたという。
■語り継ぐ責務
当時住職だった多賀谷さんの祖父崇峰(そうほう)さんは、97年に82歳で死去するまで犠牲者を悼み続けてきた。
一周忌の法要に合わせ、寺の敷地に犠牲者一人一人の名前を刻んだ慰霊碑を建てた。その中に名前ではなく、戒名が刻まれた男性がいる。「観照院自覚法道居士」。唯一身元がわからなかった犠牲者で、「自分を覚えてくれている家族がきっといるはずだ」という思いを込めて崇峰さんが付けた。身元は今も特定されていないが、寺には位牌(いはい)が大切に保管されている。
命日の頃になると、境内にはピンク色のツツジが咲き誇る。現場の線路脇ののり面に植えられていたが、事故後の工事で撤去されることになり、崇峰さんが「供養花として守り続けたい」と引き取り、丹精を込めて育てていたものだ。
「こんな事故、二度と起こしてはいけない」。崇峰さんは、幼かった多賀谷さんに事故の惨状をよく語り聞かせた。その思いを継いでいくことが責務だと感じている。
■累計300回
浄正寺が鉄道会社の研修を受け入れ出したのは、2005年4月に兵庫県尼崎市で起きたJR福知山線脱線事故がきっかけだ。
小田急電鉄が同事故などを受け、鉄道の安全管理体制が進む転機となった三河島事故から学びたいと、当時の様子を知る同寺に話を聞かせてほしいと依頼した。同社は運転士や車掌が参加して定期的に同寺での研修を行い、やがて安全の大切さを伝える「法話」は首都圏の私鉄を中心に他社にも広がっていった。
コロナ禍で一時中断したが、現在も月2、3回ほど法話を行い、累計はこれまでに約300回に上る。
社員らを引率して参加したJR東盛岡支社安全企画ユニットの川口貴幸チーフ(45)は「事故の悲惨さを知り、自分たちの仕事の重みを再認識する機会になれば」と話す。
今も毎年5月3日前後には15組ほどの遺族が慰霊碑に手を合わせに来る。多賀谷さんは「これ以上、慰霊碑が増えてほしくない。三河島事故を忘れないことが、新たな事故を生まないことにつながる」と語る。
■「命運ぶ重み 忘れないで」 右脚失った男性 願う
事故で右脚を失った男性は周囲に支えられ、この62年間を懸命に生きてきた。「人の命を運んでいる重みを忘れないで」と願う。
岡三証券の新人営業マンだった佃忠男さん(86)(東京都)は休日出勤した帰りだった。最初の衝突では無事だったが、車外に出て線路を歩いていると、爆発音が突然聞こえ、目の前で光がはじけた。気が付くと、車両の下敷きになっていた。必死ではい出したが、複雑骨折した右脚は腐り始め、命をつなぐために付け根近くから切断された。
父親に「先生方が最善の治療を尽くしてくれたんだ」と諭され、「くよくよしてもしょうがない」と、前を向く決意をした。
3年後に内勤で復職。片足で運転できる車で誰よりも早く出社し、最新情報を頭にたたき込んだ。妻のとみ子さん(85)は、冬場は氷のように冷たくなる義足の肌に触れる部分を毎朝手でこすって温めてくれた。激動の証券業界を60歳まで二人三脚でがむしゃらに歩んだ。「人に恵まれた。そばにいる家族や会社の仲間はいつも協力してくれた」と感謝する。
「お母さん、助けてくれ」。あの日、現場で聞いた悲痛なうめき声が今も耳の奥に残る。「生き残った私は、事故が起きないよう願うことしかできない。鉄道に関わる人は、仕事に真剣に向き合い続けてほしい」