時代に敏感、進化続けた桂由美さん しあわせの風を興す 作家・玉岡かおる
洗練されたウエディングドレスを生み出し、ブライダルデザインの第一人者として活躍した桂由美さん=平成27年、東京都渋谷区
洗練されたウエディングドレスなどブライダルデザインの第一人者として活躍した桂由美さんが4月26日、94歳で死去した。桂さんと親交があり、亡くなる直前にも会って会話を交わした作家、玉岡かおるさんが追悼の手記を寄せ、「桂由美が届け続けたしあわせは、絶やすことなく引き継がなければ」などと思いをつづった。
作家の玉岡かおるさん
作品はたえず新しく
「先生、やりましょうね」
そう言って手を握った私は桂由美さんのこの世で最後の訪問客になってしまった。その数時間後、桂さんは静かに逝ってしまわれた。
3月に東京で開催されたファッションショーは精力的だったし、これからやるべきことをさまざま話してくださった後だった。笑顔で握り返してくださった手はやわらかで、ぬくもりは今も私の手に残っている。
いつもタフな人が、その日は体調が悪いと食事を省かれ、ホテルの部屋でお目にかかった。トレードマークのターバンなしの姿を見るのは初めてだったが、プライベートでもきれいに装われていたのはさすがだった。
94歳の誕生日の翌日のことで、私がプレゼントを手渡すと、はにかむように受け取られた。デザイナーは夢を売る仕事だから年齢は明かさない、と長らく秘してこられたが、「ここまでやってきたのも夢の一つかと思って」と情報公開されたばかりだった。
桂由美が残した功績はあらためて説明の必要もないだろう。日本の花嫁が堅い鬘(かつら)の文金高島田(ぶんきんたかしまだ)と重い打ち掛けしか選べなかった昭和、風をはらむ純白のウエディングドレスでファッション界に風雲を巻き起こした。その作品はたえず新しく、パリやニューヨークにも進出、世界の花嫁を魅了した。世代の違うわが家の長女も、憧れていたユミ・ラインのドレスで式を挙げた一人だ。
私とのご縁は、小説「夜明けのウエディングドレス」(幻冬舎)の執筆で何度も密着取材したことに始まる。母が洋裁学校をやっていてね、と少女時代から始まる回想は、私の母も兵庫県で洋裁学校を経営していたので、すぐ通じ合えた。きれいなものに触れつつ伸びやかに育たれたからか、大御所になっても世間ずれせず楽観的で、コロナ禍でショーができないときも、室内で飼い始めたワンちゃんの話で「この頃は私より犬の取材の方が多いのよ」とぼやかれるのがおかしかった。
むろんファッションショーとなると厳しく、「もっとバックが見えるように回って」「だめ。大きく腕を上げないと袖がわからない」などと指示が飛び、現場はピリリ、緊張感で凍りつく。
センスが古びるどころか進化し続けたのは、常に時代に敏感だったからだろう。
目下の課題は「少子化」だった。日本の国力が先細りする未来を憂い、「問題は若い女性が結婚したがらないことよ」とご自分の仕事に引き寄せて、もっと幸せな花嫁をたくさんの人に見てもらわなきゃ、と尽力された。全国に「恋人たちの聖地」を指定し、さまざまな場所での結婚式を提唱されたのもその表れだ。
私が会長を務める「いなみ野ため池ミュージアム」にも共鳴し、20周年記念には水辺のウエディングに登場してくださった。そして次は新たに神戸港の海の上で、と話が膨らみ、お連れした神戸の船会社さんとも楽しく会話が弾んだのだった。
何度も思い出すあの時間。語り合った夢は遺言だ。桂由美が届け続けたしあわせは、絶やすことなく引き継がなければと念じている。(寄稿)
玉岡かおる(たまおか・かおる)
昭和31年、兵庫県三木市生まれ。神戸女学院大卒。平成元年に『夢食い魚のブルー・グッドバイ』でデビュー。20年に『お家さん』で織田作之助賞。令和4年、『帆神 北前船を馳せた男・工楽松右衛門』で新田次郎文学賞、舟橋聖一文学賞をそれぞれ受賞。近著に『さまよえる神剣』『春いちばん 賀川豊彦の妻ハルのはるかな旅路』。同県加古川市在住。