日本兵2万2000人が死亡した「硫黄島の戦い」で米軍を恐れさせた栗林中将の「意外な後悔」
なぜ日本兵1万人が消えたままなのか、硫黄島で何が起きていたのか。
民間人の上陸が原則禁止された硫黄島に4度上陸し、日米の機密文書も徹底調査したノンフィクション『硫黄島上陸 友軍ハ地下ニ在リ』が8刷決定と話題だ。
ふだん本を読まない人にも届き、「イッキ読みした」「熱意に胸打たれた」「泣いた」という読者の声も多く寄せられている。
三浦さんとの再会
派遣団招集日まであと10日となった9月14日。札幌での組合の会議に出席するため新千歳空港に降り立った僕は、恵庭に立ち寄った。戦没者遺児の三浦孝治さんに会うためだ。三浦さんは87歳になっていた。
僕が初めて取材した以降も父の「アトハタノム」に応えるべく毎年、遺骨収集団に参加していた。三浦さん宅はJR恵庭駅から徒歩15分ほど。僕は歩いて向かうつもりだった。が、駅に着くと、三浦さんはマイカーで迎えに来てくれていた。新千歳空港駅発の列車のダイヤを調べて、おそらくこの便に乗っているだろうと見当をつけて待っていたとのことだった。
いつもの「さかいさーん」の声と笑顔が懐かしかった。僕の遺骨収集団参加が叶ったことを我がことのように喜び「良かった、良かった」と何度も口にした。
三浦さんを訪ねた目的の一つは、硫黄島滞在中の注意事項などを聞くことだった。三浦さんはこんな話をしてくれた。
「硫黄島にはサソリがいるけど、刺されたという話は聞いたことがないです。最も気を付けなくてはならないのはムカデです。毒を持っています。それと足袋は避けた方がいい。場所によっては地熱がひどい。足の裏を痛めかねないからね」
三浦さんは20年ほど前、父と戦友たちを弔うため、小さな石碑を硫黄島に持ち込んでいた。その話は最初の取材で聞いていた。三浦少年と父の物語は何度聞いたか分からない。お父さんの石碑に僕も手を合わせたかった。三浦さんに、碑の設置場所を地図に書いてもらった。それも三浦さん宅を訪ねた大きな目的だった。
出発前夜に泣く娘、栗林中将の家族を思う手紙
遺骨収集団員の招集を翌日に控えた9月23日。出発前に家族と過ごす最後の夜。夕食と宿題を済ませて就寝したはずの7歳の長女が、わんわん泣きながら2階の寝室から、僕と妻がいる1階の居間に降りてきた。そして、こう言った。
「パパ、あの島に行ってほしくないよお!」
それまで娘には何度か、硫黄島の戦争の話を聞かせていた。たくさんの兵隊さんがかわいそうな目に遭ったんだよ、と聞かせてきた。YouTubeで公開されていた硫黄島の戦史のアニメを見せたこともあった。娘は、硫黄島ではまだ殺し合いが続いているのだと思っているようだった。その誤解を解く話をすると、娘は泣き止んで、再び2階の寝室に向けてとぼとぼと戻っていった。
僕は妻子を残して出征する応召兵の前夜を追体験したような思いになった。娘には「大丈夫だよ」と言ったが、胸の内は不安だらけだった。
この時期、硫黄島は地震が頻発していた。もしかしたら地下壕内で作業中に崩落して生き埋めになるかもしれない。不発弾との遭遇も恐ろしい。さすがに遺書までは書かなかったが、クレジットカードの暗証番号や、ネット銀行など僕が利用しているすべてのサービスのパスワードを万一の際を想定して妻に伝えた。
就寝前に荷造りを終えた。三浦さんの助言を忠実に守り、靴は地熱を通さない厚底のタイプを選んだ。実施要領によると、荷物は一人10キロまでだった。それを超えた場合、どうなるかまでは書かれていなかったが、あらゆるルールを厳格に遵守しなくてはならない雰囲気が実施要領の文面から伝わってきた。体重計を使って、きっちり10キロ未満に抑えた。
2週間、空けることになる自室のパソコンやテレビ、オーディオ機器などのコンセントをすべて抜いた。このときふと、栗林中将が戦地から家族に送った一通の手紙を思い出した。その手紙は、自宅の台所から入るすきま風を塞ぐ処置をしないまま出征してしまったことを悔やむ内容だった。妻や子供たちは寒い思いをしていないか、思いやった手紙だった。
僕は、やり残したことはないか、と頭を巡らせた。