「卓球の鬼」と呼ばれた平野早矢香 中学から寮生活で27歳まで部屋にテレビなし「今はラケットを握りたいと思う気持ちはまったくないです」
日本卓球史上初の五輪メダリストに輝いた平野早矢香さん。5歳で卓球をはじめ、中学からは強豪校で寮生活を送った選手時代の心境を振り返ります。(全4回中の1回)
地元にいても日本一になれない
── 平野さんと言えば、鬼気迫るような熱いプレー姿が話題となり「卓球の鬼」と呼ばれていました。
平野さん:当時は周りから「鬼」と言われていたほど怖い顔もしていましたね。2021年に結婚したのですが、引退してから知り合った夫は、当時の映像と見比べて同じ人と思えない!と。私の第一印象は「おしゃべりメダリスト」だったそうです(笑)。
──(笑)。現役中はとにかく卓球一筋だったそうですね。
平野さん:卓球以外にあまり興味がなかったので世間の話に疎いというか、特に驚かれるのが、27歳まで部屋にテレビがなかったこと。実家にはテレビありましたが、中学からずっと寮だったので。高校を卒業してからは部屋にテレビを置いてもよかったんですが、テレビを観る習慣もなかったので必要性を感じませんでした。
ひとり暮らしをするときに買った理由も、親から「テレビでもいい番組をやっているから買っておいたらいいんじゃない?」と言われたから。芸能人の話とか、このドラマおもしろいよねと周りに言われてもわからなさ過ぎてみんな呆れていましたよ。
洋服もジャージ以外の私服を持っていなくて、山手線にも所属先のミキハウスの真っ赤なジャージで乗っていました。そもそもコーディネートができないので…。妹と買い物に行って服を選んでもらったり、マネキンが着ているものを「上から下までください」と言っていたほどです。
── そもそも卓球を始められた経緯は、卓球をしていた両親の影響が大きかったのでしょうか?
平野さん:そうですね。でもうちでは卓球はあくまで習い事のひとつ。それ以外のことに厳しくて、小学校から帰ってきたら宿題をして、それ以外にもドリルみたいなのが用意されていて、それをしないと卓球の練習に連れて行ってもらえない、そんな家庭でした。
夢中になり始めたきっかけは、小学2年生で全国大会2位になったこと。同世代で日本一になりたいという思いが芽生え始めました。でも、当時住んでいた栃木県は卓球の強い中学や高校がなかったんです。そこで「地元にいては日本一になれない!」と思い、声をかけていただいた仙台の中高一貫校へ行きたいと反対する両親を説得。中学生から親元を離れての寮生活となりました。
楽しんでプレーする気にはなれなかった
── そのときから大きな覚悟をもって卓球に取り組んでいたんですね。
平野さん:ただ、中学3年間でも日本一には届きませんでした。同世代は才能のあるプレイヤーが多くて。私にはそういうのがないうえ、技の習得にも時間がかかるし、勝負所で勝ちきれない。努力はするし、選手として悪いわけではないのに勝ちきれないのはなぜなんだろうと、周囲と比べて器用にできない自分を惨めに感じてしまうことも多かったです。
── そのなかで、日本一という目標に向けてどのように自分を鼓舞していたのでしょうか?
平野さん:才能のある選手たちと自分を比べると、自分のよくないところばかりが見えてモチベーションを維持するのは難しいので、周りと比べることをやめました。
その代わり、昨日の自分と比べることに。昨日の自分より少しでも何か上達しよう、頑張ろうという気持ちで。徐々に実力もついてきて、高校1年生でやっと全日本選手権ジュニアの部で日本一になり、それがきっかけで世界選手権にも選ばれて世界を目指し始めました。
── 現役時代の練習量もかなり豊富だったとか。
平野さん:特に高校を卒業してから所属したミキハウス時代は、規定練習が1日約6時間、自主練習では日付が変わることも。休みの日に遊びに行くとかどれくらいしたのかな。休みの日の翌日も練習のため、カラダのケアをするとか、早く寝るとかそういうことばかり。とにかく自分で自分を追い込んでいました。私オンとオフの切り替えが苦手で常にオンの状態だったんですよね。
あと、今の子たちは「楽しくプレーする」ってよく言いますが、自分の卓球人生を振り返ると楽しんでプレーする気持ちにはなれませんでした。毎回毎回人生をかけた勝負という気持ちが強かったです。もし楽しむぐらいの余裕があったらもっといい成績になっていたのかなって思ったりもしますが、私の性格からして追い込むやり方だったからこそ成績が出たのかも。
私、こんなところで試合してたんだ…!
── ところで、平野さんは2012年にロンドンオリンピックで銀メダルを獲得し、2016年に引退。今は、解説者やスポーツコメンテーターとして活躍されています。選手時代から今も大切にしていることはありますか?
平野さん:何に対しても「教えてもらいたい」「もっとよくなりたい」という姿勢は現役のころと変わりません。これからも持ち続けたい心構えですね。
狭い世界で生きてきた人間だと自分でも思っているので、知ったかぶりもしません。「メダリストなのにこんなこと知らないと思われたらどうしよう」とか考えずに、なんでも聞くように。どんなお仕事でも終わった後には「今日はどうでしたか? 違和感があれば教えてください」とスタッフさんや、マネージャーや周囲の方にアドバイスをいただくようにしていますよ。
── 解説をしながら自身の選手時代と重ね合わせて気持ちが入ってしまうこともありますか?
平野さん:私のときはこんなに卓球は注目されていなかったので、小さいころからメディアにとりあげられて注目される今の選手の大変さとは比べものにならないです。ただ私自身は現役時代になかなか勝てなくて、辛い苦しい経験はたくさんしてきているので、選手が大変な時には寄り添ってあげたいという気持ちにはなりますね。
── 今回、卓球のパリオリンピック代表メンバーに、東京オリンピックで金メダルを含む3つのメダルを獲得された伊藤美誠選手が選ばれず驚かれた方も多いですよね。
平野さん:伊藤選手は周囲の期待を背負いながら、東京オリンピック後十分に心身をリセットできずに選考レースが始まった印象でした。もっとゆとりをもって選考レースに臨ませてあげたかったと思いますが、他の選手たちも自分の人生を賭けた選考レースですからね、本当にシビアな世界です。
私自身も、リオデジャネイロオリンピックへの出場を目指しながら落選という経験をしています。伊藤選手の今後の人生を考えると、すごく大きな学びがここにあると思うので、持ち前の心の強さでこの経験をプラスに変えてほしいなと思うし、変えられる選手だと信じています。
── ちなみにご自身はまた卓球をやりたいという気持ちは?
平野さん:それはまったくないですね。卓球も好きだし、卓球の話も好きだし、教えるのも好きなんですけど、自分が打って練習したいみたいな気持ちはまったくなくて。
引退から3か月後に、リオでのオリンピックの現場にテレビ解説で行ったときには、「私こんなところで試合してたんだ!」と。もう1 回オリンピックに出たいという気持ちはあったものの、引退して3か月も経つと「ここで試合するのは無理!」と、思いましたね。
今では、1年間ラケット持てませんと言われても全然大丈夫。それは引退してからずっと変わりません。本当にやりきったのだと思います。
PROFILE 平野早矢香さん
1985年生まれ。栃木県鹿沼市出身。5歳で卓球を始め、仙台育英学園秀光中学校・仙台育英学園高等学校に進学。卒業後ミキハウスに入社、オリンピックでは2008年北京にて、団体戦4位。2012年、ロンドンでは福原愛、石川佳純両選手とともに団体戦で銀メダルを獲得。男女通じて日本卓球史上初の五輪メダリストとなった。現在は後進の指導に務めるほか、全国各地にて、講習会、講演会、解説、スポーツキャスターとして広く活動。
取材・文/平岡真汐 写真提供/平野早矢香