「ひょえー!」藤井聡太名人が49分の長考で指した“イバラの道”の一手に控室では悲鳴が上がった
〈 藤井聡太名人、そのあまりに高度な勝負術。控室では、棋士全員の顔色が変わった「王座戦の逆転劇よりも驚いています」 〉から続く
豊島将之九段が藤井聡太名人に挑戦する第82期名人戦(主催:朝日新聞社・毎日新聞社・日本将棋連盟)七番勝負第2局が、4月23日から24日にかけて千葉県成田市「成田山 新勝寺」で行われた。
豊島は、第1局では後手番で意表の横歩取りを採用した。先手ではどんな戦型を選ぶかが注目だったが、選んだのは相掛かりだった。両端を突き合ってから、豊島はすぐに飛車先を交換する。今年1月、第82期A級順位戦の広瀬章人九段戦でしか指したことがない出だしだ。その対局では広瀬が△6四歩としたのに対し、右桂を跳ねていった。
すぐに急戦になる可能性もある。序盤早々盤上に緊張感が走る。藤井は26分の考慮で、すぐに角道を開けた。今度は豊島が手を止め17分の考慮で角道を開けた。水面下の駆け引きが行われている。
藤井聡太名人が1勝して迎えた名人戦第2局
43年振りに名人戦で「ひねり飛車」が登場
この対局の1週間前に、今をときめく藤本渚五段が、小山怜央四段との対局で「塚田スペシャル」を採用し、超急戦で快勝していた。私は後日、藤本に話を聞いてみた。「(豊島にとって)塚田スペシャルが選択肢に入ってたと思うか?」と尋ねると、「△6四歩ではなかったときに豊島さんが手を止めていたので、もしかしたら、塚田スペシャルにする気があったのかもしれないと思いました」とのこと。
そして藤井が飛車先を交換したのに対し、豊島は飛車をひとつ横に寄った。おっ、これはタテ歩取り型の「ひねり飛車」だ!
豊島はひねり飛車を指したことがなかったはず。この大舞台で初採用かあ……。
名人戦でひねり飛車が登場するのはいつ以来だろう。ふと、私が中学生のころの記憶がよみがえってきた。慌ててデータベースで確認する。間違いない。43年前の第39期名人戦第2局と同じ戦型だ!
1980年度、名人への挑戦権をかけ10人が争うリーグ戦には、大山康晴十五世名人、米長邦雄永世棋聖、加藤一二三九段など、そうそうたるメンバーがいた。そしてその中には、現在、名人戦を戦っている2人に関わる棋士もいた。藤井の師匠・杉本昌隆八段の、そのまた師匠である板谷進九段、当時40歳。豊島の師匠、桐山清澄九段、当時33歳。板谷の弟弟子で私の師匠である石田和雄九段もいる。桐山と石田は同い年のライバルで、25歳のときには第3期新人王戦決勝三番勝負で戦っている(2勝1敗で石田優勝)。
桐山は、居飛車も振り飛車も指しこなすオールラウンダーだった。順位戦では後手なら振り飛車、先手はひねり飛車を主軸に快進撃を続け、A級5期目にしてついに名人挑戦権を掴んだ。ちなみに7勝2敗で挑戦権獲得も豊島と同じだ。待ち受ける名人は中原誠。桐山と同い年ながら、名人8連覇中の絶対王者だ。
私はそのころ中学1年生で、アマ初段になりプロの将棋もいくらかわかるようになっていた。桐山が私の得意戦法である中飛車を採用していたこともあって、新聞観戦記や将棋雑誌で桐山将棋をむさぼるように見ていた。
豊島がオールラウンダーとなったワケ
その桐山が名人戦第2局でひねり飛車を採用したのだ。
豊島も同じ33歳、同じ名人戦第2局でひねり飛車とは、なんたる偶然だろうか。
豊島は奨励会時代、桐山の自宅で将棋を月に一度教わっていて、それは四段になるまで続いた。2018年、棋聖戦に挑戦したとき聞いたところでは、「平手で教わりました。師匠は居飛車でも振り飛車でも何でも指してきます。とても勉強になりました」とのこと。豊島がオールラウンダーとなったのは師匠の影響が大きいのだろう。ひねり飛車の公式戦採用はわずかだが、おそらく経験は豊富なのだ。
ちなみに「師匠とは酒を酌み交わしたりするの? 私はよく石田師匠と飲んで、両者つぶれて……」と聞くと、「いえ、師匠も私も酒は飲まないので紅茶とケーキで、ほとんどが将棋の話です。師匠が作った詰将棋を解いたりもしました」と言われたことがある。さすが桐山豊島師弟やなあと感心したことも記しておく。
第1局のお返しとばかりに次々とポイントをあげる藤井
後日、杉本にも話を聞いた。ちなみに杉本は私と同学年だ。
「懐かしいですね。私は中1の10月に奨励会に入りまして、奨励会を受験する前は、月イチで師匠の自宅で将棋を教わっていたんです。桐山先生がひねり飛車を得意にされていたことは覚えています。師匠が40歳で石田先生と桐山先生はまだ33歳ですか。先生方が、皆さん貫禄があるのでもっと年上かとおもっていました(笑)」
さて藤井はどういう駒組みにするのかなと見ていると、浮き飛車にして3四の歩を守り、昼食休憩を挟んで61分もの長考で、突然、角を中央に飛び出した! なんだこの手は、なるほど確かに歩で追うと、飛車の可動域が狭くなる上、玉のコビンが開く。ひねり飛車に対して、浮き飛車に中央の角とは見たことがない。
そして、ここから藤井は見事な手順で次々とポイントをあげる。働きの良い先手の桂に対し、端から桂を跳ねてぶつけ交換する。さらに桂打ちを見せて豊島に歩を使わせる。ひねり飛車の良さをすべて潰してしまう。第1局のお返しとばかりに藤井が構想力を見せつけ、1日目は40手にも至らず豊島の封じ手となった。
藤井が見せた中央の角について、森内に話を聞くと…
2日目、私は京成線で成田へ向かい、駅から参道を歩いて11時半ごろ現地に着いた。検討中の棋士たちに挨拶すると、皆困った顔をしていた。あれっ、何が起きたのか?
藤井が桂を打って豊島の飛車を左辺で身動きがとれない状態にして、逆サイドの端攻めを敢行していた。端に垂らした歩を取らせれば、後手は桂か香が入手できる。そして、その駒で飛車を取れる。防ぐ手段は難しい。まさに技ありだ。
これは長考間違いなし。ということで立会人の森内俊之九段と雑談に入る。
森内は、名人戦の舞台で羽生善治九段と何度も死闘を繰り広げ、羽生よりも先に永世名人の資格を得た(森内が十八世名人、羽生が十九世名人)。名人戦登場12回、名人獲得8期にのぼる。成田山新勝寺での名人戦は3度目だが、過去2局は森内ー羽生戦だった。
その森内に、序盤に藤井が見せた中央の角について見解を聞いてみたかった。
「チェスのオープニングみたいですね。チェスでは、序盤早々にビショップ(角)が相手陣地まで出る手があるんです。ポーン(歩)で追い返されるんですが、それで形を乱すという」(※あとで調べたらルイ・ロペスというメジャーなオープニングだそうだ)
「藤井さんはチェス・プロブレム(チェスの詰将棋)を解くそうですが、チェスから発想を得たんでしょうか?」
「いや、それはわかりません。ですが、藤井さんは発想が豊かですよね。先入観にとらわれない」
この時点では早めの終局すら予想していたが…
昼食休憩後、豊島が端に桂を打ち、香の進出を食い止めた。ここまでは控室の予想通り。だが、桂が質駒ではいかにも苦しい。
本局の副立会人は、佐藤和俊七段(朝日)と渡辺和史六段(毎日)。2人とも奨励会で苦労した叩き上げだ。佐藤は年齢制限1年前の25歳で棋士になった。渡辺は三段リーグ初参加の成績が1勝17敗で、24歳で四段になるまで11期かかっている。苦労したぶんだけ将棋への愛情が深く、将棋界を代表する好人物だ。
佐藤が「藤井さんがじっと陣形を整えていると豊島さんに有効な手がないですね」と言えば、渡辺も「玉を中住まいにして飛車を下段に引けば、藤井さんが好きそうな構えになりますね」と同意する。この時点では早めの終局すら予想していた。
ところが藤井は、49分の長考ですぐ桂を取った!
森内と私で思わず「ひょえー」と声が出る。ここで取る手を考える棋士はほとんどいない。こういうときは慌てて取ってはいけないと叩き込まれているからだ。
「いやー、これはすごい。取っちゃうと後手陣にもキズが残るし、このあと一手のミスもなく指さなくてはいけない。イバラの道を選びましたね」(森内)
藤井が垂らした歩を豊島が取ったところで夕休憩
藤井は桂を打って飛車を捕まえ、香→桂→飛車と駒がアップグレードしてゆく。取った飛車をすぐ端に打ってと金を払う。ここまでは藤井の想定通りの局面だったろう。
しかし、ここからの豊島の粘りが見事だった。駒損にもかかわらず角をじっと引いて手を渡し、玉の頭上に桂を打って守る。そして飛車の頭に歩を打ち、飛車角の利きを遮断したところで控室の空気が変わった。藤井の駒が押し込まれ、打った飛車が目標となっている。
「立会人の言うようにイバラの道だったか……」と私がつぶやくと、佐藤と渡辺がうなずく。もう藤井優勢という雰囲気はない。喉に刺さった小骨が取れたかのように、豊島の表情はすっきりしている。
48手目に藤井が垂らした歩を、65手目に豊島が取ったところで午後5時となり、30分の夕休憩になった。両者におにぎりが供される。2日目夕方、勝負の先行きが見えない状況で登場するおにぎりは、豪華な昼食やおやつとは違う趣がある。夜戦に備えて対局者は黙々と食べるのだろう。
写真=勝又清和
〈 「この手は…詰めろになっています!」大激戦だった名人戦第2局、中継に映らなかった舞台裏で何が起きていたのか 〉へ続く
(勝又 清和)