「この手は…詰めろになっています!」大激戦だった名人戦第2局、中継に映らなかった舞台裏で何が起きていたのか
〈 「ひょえー!」藤井聡太名人が49分の長考で指した“イバラの道”の一手に控室では悲鳴が上がった 〉から続く
検討している継ぎ盤から棋士が離れ、さあ我々も一息つくか、というタイミングで藤井聡太名人が戻ってきた。前傾姿勢で考え込んでいる。まだ10分しか経っていないぞ、おにぎりには手を付けていないな。緊急事態だというのが藤井の対局態度でわかる。
休憩が明け、ついに挑戦者・豊島将之九段の反撃が始まった。飛車取りに左から桂を打ち、右から桂を跳ね、さらに7筋にいた角が大きくバウンドして1筋へ飛び出す。第1局に続いての三角飛びだ。さらに香を打って飛車を捕まえ、殴り合いに持ち込んだ。
藤井聡太名人は、休憩開始から10分で対局室に戻ってきた(控室モニターより)
地震が起きても動じない両者
藤井が飛車取りを無視して玉頭に手をつければ、豊島は美濃囲いの金銀をタダで取らせる。裸玉になるのもかまわず、その間に取り戻した飛車を後手陣へ金銀両取りで打ち込み、金をはぎとった。
検討室では佐藤和俊七段が後手陣に桂を放り込む妙手を発見していたが、藤井は玉を早逃げし、その手を防いだ。「さすがです」と声があがる。
ならばと豊島は自陣上部の桂を抜き、自玉隣に金を打って守った。両者ともパンチを繰り出しつつも守りを固め、実に辛抱強い。指し手からは「自分からは倒れない」という意志が伝わってくる。
馬を角と交換して盤上から消し、これで豊島玉は安寧を得た。となれば藤井もまた玉を早逃げかな、と皆で言っていたところ、藤井は持ち駒の銀をゲームチェンジャーとして盤上に送り出す。打った銀が桂を取り、さらに豊島の玉頭に迫った。この手は攻めの手に見えて、実は自玉の詰めろを消しにいっている。豊島もまた竜を1マス藤井玉に寄り、銀を入手する。
そんな中、地震が起き、かなり揺れた。しかし手番の藤井は微動だにしない。豊島も少し周りを見たものの慌てた様子はない。
ああ、あの日もそうだったな。3.11、東日本大震災の日、私は豊島と順位戦を戦っていた。豊島は第60期王将戦七番勝負に挑戦中で、スケジュールを調整してC級1組の一斉対局より一足早い最終局だった(そういえば記録係は当時初段の渡辺和史だった)。あの日、対局中の棋士はみな動揺していたが、豊島はまったく動じる様子を見せず、中断している間は自室で休んでいた(当時の連盟には宿泊室があった)。そして対局再開後、私は豊島の妙手に一太刀で倒された。今もし豊島の手番だったら、彼もまた微動だにしなかったのだろう。
想定外の一手に控室では再び「ひょえー」と声が
さらに迫ってくる藤井の銀に対して、豊島も銀を打って盤上から消した。
難解な攻防に、検討する手順もどんどん複雑になっていく。渡辺が「なるほど! わからない」と言って皆で笑う。検討陣のメンバーには立会人の森内俊之九段をはじめ、間近で対局を見ている記録係の中沢良輔三段と福田晴紀三段も交互に加わって、仲間がたくさんいる。AIの評価値も候補手も見ることができる。
練習用紙にエンピツと消しゴムで文字を書いているようなものだ。間違えたら消せばいい、新しい紙を出せばいい。しかし、対局者は違う。孤独だ。和紙に筆で、黒々と墨痕を記していくように、その一手はとりかえしのつかない一発勝負だ。
両者とも想定外の指し手が多かったのだろう。藤井の中央角に豊島は驚いたことだろう。豊島がじっと角を引いて手を渡してから反発した手順は、藤井の射程から外れていたであろう。何度も読み直しを強いられ、疲労もたまっているだろう。しかし、ここが最後の勝負どころ、疲れに気をとられたら負けになる。
さあさあクライマックスだ。
豊島が銀を打って詰めろをかけ、藤井が銀を打って受ける。これは千日手だ! 騒然となる控室。主催者と森内で千日手が成立したときの協議をする。
打開できるのか? 後手玉に詰めろがかかるのか? 今日鋭い読み筋を次々と披露し、キレッキレの渡辺もウンウン唸って考える。「金はトドメに残せ」だし、ここで金を使うのは、もし詰めろだったとしても先が読めない。読みきれない。これは千日手になるだろうと皆がいう。
ところが。
豊島は千日手の手順を一度も経由せず、金を逃げて打開した! 再び「ひょえー」と声があがる。つまり、これは、千日手の確証がなかったのか? しかしこれで余せるのか?
熱戦を桂打ちでチェックメイト
藤井は下から角を打ち、銀を入手すれば詰む形にする。さすればと豊島が玉を上に逃げる。なるほど、次に桂を外して上部脱出か。
しかし、渡辺がはっとした表情で、藤井側の駒台にある駒を掴んだ。
「この手は……詰めろになっています!」
モニターを見る。豊島は次の手に気がついたのか、手で口を押さえている。藤井は残り3分のうち1分を使い、その駒をつまんだ。すこし曲がって盤上に置かれ、すぐに直した。それは熱戦の終わりを告げる「藤井の桂打ち」だった。
前略 藤井聡太様
なぜ、あなたはここぞという場面で桂馬があるのですか。かならず、あなたの駒台には桂馬がいるのはなぜですか?。
第1局も、第2局も桂馬で詰めろをかけ、勝ちを決めました。それだけではありません。渡辺明九段から名人を奪取した第5局も、歩頭の桂打ちが詰めろとなる決め手でした。 加藤一二三九段とのデビュー戦でも、29連勝したときも、棋聖を獲得したときも、王座を奪って八冠になったときも、いつも最後は桂打ちで決めていました。これは偶然とは思えません。
「藤井の桂馬が性能が違う」
棋士たちはそう言っています。あなたの桂馬、「藤井の桂」は、まるでチェスのナイトのように、盤上自由自在、八方に飛んでいっています。
あなたの最愛のKnight(騎士)は、対戦相手にとってNightmare(悪夢)です。
126手にて豊島が投了した。終局時刻は午後9時19分。初日から2日目の夕休憩の17時までに65手だったから、最後の休憩明けに61手も指したことになる。いかに大熱戦だったかわかるだろう。
インタビューで豊島は「途中は指す手がなかった」と正直に話し、藤井も桂を取った手を反省した。
そして肝心な場面、やはり、豊島は千日手手順になるかどうか確証を持てなかった。藤井は千日手打開は無理と受け入れるつもりでいた。
「そうか、詰んじゃうんですね」
豊島に勝機はなかったのか。銀ではなく▲5二金が盤上に並べられ、その局面で1分以上の沈黙の末、先に詰み手順を発見したのは豊島だった。自陣にいる駒も使わなければ詰ますことができない、とても読みにくい順だ。
棋界の頂点に立つ2人が、前例のない将棋を、2日間限界を超えるほど脳をいじめ、考えに考えた末に待っていた局面だ。極限状態の中、持ち時間9時間のほとんどを使って互いに残り6分、「金はトドメに残せ」と染みこんだ思考回路の逆をいく、「金を打て」というのはあまりにも難しい。藤井ですら詰み手順をすぐに発見できなかったのだ。▲5二金を打てる棋士はいないだろう。
とはいえ、感想戦で藤井が相手に詰み手順を先に解かれるのは珍しい。私が目撃するのは初めてだ。今日は藤井の読みに驚かされてないなあ。それだけ疲れてるんだなあ……と思っていると、藤井が「そうか、これ詰むんですね」に続けて、「香みたいな手をやっても意味ないですよね」と局面が戻され、▲5二金に△5一香と打った。
なんだこの手は? そうか、竜で取ると王手竜取りに角を打つ手があるのか。
豊島がその筋を避けつつ詰めろをかけ、藤井が玉を早逃げした局面をつくると、今度はわずか10秒、「そうか、金打っても取って詰んじゃうんですね」。大駒をすべて捨てて、先ほどとは違う手順の25手詰め……。
「角で王手しても歩合いで負けですね」
金銀4枚を持っているし、逃げ切る順は一つしかないけど詰まないのか。
いやいや読み切るの早すぎるって。感想戦でも負けず嫌いすぎませんか。絶対悔しかったんでしょ。
勝ち切るというのがどれだけ大変なのか…
帰りは、将棋番組の制作会社の方の車に同乗させてもらった。車中では豊島の粘り強い指し回しに2人で感嘆していた。
「豊島さん、今年に入って調子を落としていたのに(※1月から2月にかけて5連敗している)、さすがですよね」
「2日制のタイトル戦で、2局続けて藤井名人を追い込むなんてすごいですね」
「だけど、あと一歩が遠いですよね。藤井さん相手で勝ち切るというのがどれだけ大変なのか……」
最後に、「将棋は本当に残酷な……」で、2人で口ごもった。
そうなのだ。あと一歩なのだ。それが、遠い。
写真=勝又清和
(勝又 清和)